うた分も多からうから、此書目の登録する所を以て、所謂見在書の総計だと信じることは、到底出来ない。が、尠くとも、此書に載つた書物に、奈良以前の舶載が極めて多からうと言ふ事だけは、推測する方がほんとうだらうと思ふ。
前漢紀は、後漢の荀悦の著で、建安十年には出来てゐる。悦の序文で見ても、漢書の伝と言ふよりは、漢書をば、其本紀を綱紀として整理したものだ、と言ふ事は出来る様である。従つて巻数も、現在の漢書が百二十巻であるのに対して、三十巻に縮まつて居る。後漢紀は、此書に倣うて出来た物で、巻数はやはり三十巻、東晋の袁宏が、太元元年に撰つたものである。
三史をば為政の準拠として、中央政府に於て尊び、太宰府では、五経あつて三史を蔵せざるを恥ぢた時代である。殊に、三史講筵の行はれた関係から、此二紀が、漢書・東観漢紀或は、後漢紀の、有力な補助として利用せられてゐたらう、と言ふ事も察せられる。大同に到つて、新立の紀伝道に併合せられた進士・秀才の二道は、とりもなほさず科挙の為の学であつて、同時に行政に応用せられるはずの、過去の事蹟を授けるものであつた。貴族の間に流行した私学の建設も、政治社会に於ける、同族の繁栄を目ざして居たのである。かうした意味からも、漢書・後漢書の綱要とも言ふべき二紀の、奈良・平安に行はれたらう様は考へることが出来る。
年代から言うても、日本紀奏上前に、わが国の学者に知られて居た事は、大して、不自然でなく考へられる。
二 日本書
直感の鋭い読者の中には、もう、私の言はうとする過程は呑み込まれてゐるであらう。「日本紀」と言ふ名前が、前漢紀・後漢紀と同様な組織を持つて居る所からつけられたものだといふ事は、日本紀の巻数がまづ明らかに見せてゐる。次には帝王の事蹟・宮廷・国家の事件を主として、編年の体に、事を叙述して行つた点である。今一つの証拠は、此文の結論であり、発端でもあるから、後の納得に委せる外はないが、日本紀が、ある正史の伝書ではないかと言ふ処にある。
日本紀に就ての最初の記録は、続日本紀に見えた次の一文である。
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五月(養老四年)癸酉。是より先、一品舎人[#(ノ)]親王勅を奉じて、日本紀を修む。是に至りて功成り、紀三十巻・系図一巻を奏上す。
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今の日本紀には系図はないが、大体は、疑はなくとも、よい様である。紀三
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