範としての史書の意味を、重んじる儒学の態度の、輸入せられたのは古い事である。紀伝道が立てられ、史書講筵が天子並びに高級官吏の間に続けられる様になる機運は既に、奈良朝に熟して居る。さうした講筵の対象になつてゐるものは、所謂三史であつた。「日本紀」の出来た目的の一部も、其辺にある様な気がする。
三史の中、史記・漢書には問題はない様であるが、残る一部は「後漢書」の名で記されて居るけれど、其が果して、今の後漢書を斥《サ》すものともきまらない。「東観漢紀」を示すのではないかと言ふ疑ひは、先哲以来宿題である。
唐にも「東観漢紀」が重んぜられてゐた為、其学風を移した奈良朝及び、平安初期に所謂三史の包含する所は、察せられさうである。
吉備[#(ノ)]真備将来の三史五経なるものが、筆拍子に乗らなかつた書き方だとしたら、「日本国見在書目録」に「吉備大臣撰(?)来するところなり」と註した東観紀を、三史の一つと見る事も出来る。又、東大寺に此書の伝本があつたと言ふ所から見ても、わが国に古く行はれた三史の後漢書が、単に普通の後漢書と一つ物だときめてゐることが、むづかしくなる訣である。後期王朝に入つては、時としては「晋書」其他の講筵も開かれた様であるが、ともかく三史の尊重せられた事は言ふまでもない。其と同時に、東観撰修を標した漢紀以外にも、前に述べた二部の漢紀の、渡来してゐた事も考へられるのである。
見在書目録に二書の名の出て居る事は、平安朝初期末より前――即、公の鎖国以前――に、此等の書物の舶載せられて居た事を示して居るので、其が幾年前の事であつたかは明らかでない。年数の「幾」には、十百等の字を代入する事も出来る訣である。日本紀完成以前既に、一部の学者は、此を見てゐた事は仮想が出来る。万々此二書の渡来がなかつたとしても、帰化留学の学者・僧侶の此等の書物に就ての知識が、日本紀の題号と体裁とを生んだと考へる事は出来る。
私の、文学史を講義した経験から言ふと、奈良朝以前の漢学は、従来の学者の考へとは反対に、嵯峨朝を頂点とする平安朝のものよりは、遥かに優れてゐる。入国後、間もなく日本詞章と提携する様になつた。さうした日本化の未だ浅いだけでも、純粋が保たれたのである。官辺よりは、寺院や民間に隆《さか》んであつたのである。見在書目録がどれ程広く、其等家々の文庫を含んでゐるかゞ問題であるし、渡来後、踪跡を失
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