のは、西行・寂蓮・寂然等の修道生活から来るものに向ふのは、当然である。おなじ語を首句や尾句に据ゑて、十数首の変化を見せたり――西行の「山深み……」、寂然の「……大原の里」、慈円の「……住吉の神」――首句と尾句とを各同じにして、趣向を練つたりする様な――見せばやな。志賀の唐崎、麓なるながらの山の春の景色を(慈円)――暇つぶしの遊戯をしたのも、僧家の人たちである。そして、互ひに慰め合うて居る間に、実生活を主題にしたものが出て来た。其等には、互ひに、自然の寂しさ・人事の無聊を述べ交《カハ》す様になり、短歌固有の細みと、仏徒の生活情調とが融合した。さうして稍《やや》、東洋思想特有の型に入つた、単純にして力|勁《づよ》い、静かで湛へたものゝ姿をとつて来た。
短歌の上の細みは、元来、修道禁欲から生れる辛苦の結晶ではない。恣《ほしいまま》に放つて置いて、而も、湧然として動き来り、心を掠め去る瞬間の影である。ある態度の生活者に限つて達し得る心境ではなく、凡下《ぼんげ》の者の飽満の上にも来る響きであつた。西行を代表として完成した形の細みは稍、形が歪んで出て居る。鎌倉室町の京・東《アヅマ》の五山の禅僧の漢文学の影響を、極度にとり入れた後世の文学・芸術・芸道が、西行の境地を更に拡げて、細みを、不惑に基礎を据ゑたさび[#「さび」に傍線]に徹せしめたのも無理はない。唯、短歌に於ては、江戸にも明治にも、さび[#「さび」に傍線]に煩はされたものはなかつた。けれども、此歪んだ形の細みを以て、歌の本質と見ねばならぬ様な場合が往々あつた。古今無名氏の歌に還れ、万葉の家持に戻れ、更に、黒人の細みを回復せよ、と言ひたい。
此二つの時代にかけての僧家の歌は、さうした時々の問ひ交しの歌及び、其から導かれた独白の時々に、細みが見られる。其外は概して、驚くほどに騒々しいものばかりである。奈良以来、僧家の歌は、宮廷流行の表現法には遠い古風なものであり、散文律を交へ、また口語脈さへ混じさせてゐる。後の明恵の如きは其著しいものである。讃歌・釈教歌なども、随うて、漢語・漢語音から来る変態律で、国文脈を動揺させてゐる。此等は僧家にもあるが、貴族の人の仏典を讃する歌を作る場合に、殊に其癖を著しく見せてゐる。此は、講式の讃歌の口調を短歌にも移したので、古い物には其癖はわりに尠い。此頃の物には、仏典を和讃する場合は勿論、仏者関係の物から、更に唯の歌にすら、さうした言語情調を好んで入れる様になつた。
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呼子《ヨブコ》鳥。うき世の人をさそひ出でよ。入於深山《ニフオジンセン》。思惟仏道《シユヰブツダウ》 良経(月清集)
時により、すぐれば 民のなげきなり。八大龍王。雨やめたまへ(実朝)
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此等はまた仏語を国語脈にとり込んでゐるが、此などは極端な例である。連歌の一体とすら見る事の出来る程、思ひきつた試みである。
金葉・詞花の時代は、短歌の創作動機が鈍つて、或は、連歌が室町を待たずに勢力を持つに到つたかも知れない状態になつて居たらしい。歌学・歌論は喧しくなつても、文学製作階級は、短歌に興味を失ひ出して居た。其をともかく盛り返したのは、俊成の努力である。武家や、僧家に歌人の出たのも、短歌が公家を去らうとしてゐた形勢を示してゐるのであらう。
千載集は、ともかくも、平安中期以後の歌風の変遷を、一つ処に集めて見せる様な歌集である。ある側は極めて複雑化し、ある側の人々は「たゞごと」をしか述べて居ない。一代前の新派も旧派も、茲《ここ》には肩を並べて居る。而も、俊成・西行等の当代の代表歌風も見え、直に迫つてゐる新古今時代を待ちあぐんだ人々の作さへも含めて居るのである。
新古今集の時代は、女房が文学上の実力を失ひかけて居る事が、まづ目につく。才女と言はれた宮内卿の如きは、新古今の発足点に低回してゐた。天分はあつても、変化は出来なかつたらしい。此等の基礎は、此女房の腕を振うた所と一致してゐる。経信以来の絵様見立てを、動的に描き改めた。さうして、其画面を美しくする者は、其物を目的にして、其を以て、彩り絵の美しさの上で変化を示さうとした。情景の変化や、時間の推移の静かな調和であつた。総べて、美の思ひがけない発見を目がけた。静的な美を動的に、平凡を趣向によつて、美を衝かうとした。
だが、此種の作物には、中心たる自然の変化に関心しすぎるから、矛盾や、曲解の露れる不安がある。絵様を浮世画に替へれば、「冬の田は、山葵《わさび》おろしの様に見え」など言ふ川柳の穿《うが》ちになつて了ふのである。此は感覚的現実たるべきものに、空想的誇張を前提としてゐるのだ。美しさには心惹かれても、結局、美の根柢が自然を「我《ガ》」で変造したものなのである。たとひ、誇張がなくとも、自然から人為に似た現象を抽き出して来たものすら、高級なものでないのに、かうした作風は空想だから駄目である。
中には、言ひまはし一つで、物珍しく見せかけたものさへある。
良経の早い頃の作
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桜さく比良の山風、吹くまゝに、花になりゆく 志賀の浦なみ(千載集)
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は、宮内卿の「花さそふ比良の山風ふきにけり。こぎゆく舟の跡見ゆるまで(新古今)」と相影響する所があらうが、此は四句と五句との修辞上のかねあひ[#「かねあひ」に傍線]から出る興味で、其が虚象を描く処に、価値が繋つてゐるのだ。新古今にはまだ外に、此風は残つてゐる。
此等から見れば、
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おもかげに花の姿をさきだてゝ、いくへこえきぬ。峯のしら雲(新勅撰)
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俊成の此方は、姿を印象することは尠く、気分に絡みついて行くだけに強い。前者よりは空想分子の多いに拘らず、不安な印象を与へることは尠い。かうした情趣をこめた自然描写が、空想を払ひ去つて、健やかに成長したのが、後の玉葉・風雅の歌の主流である。新古今は早く彼《かの》二集に行く筈であつたのが、逸れたのである。
新古今の当時は、文学の天賦豊かな人が集り過ぎた。雰囲気はあまりに濃厚であつた。表現法・技巧が、互ひに鋭敏に影響しあうた。鑑賞法もどん/\移つて行つた為、歌柄を変へずには居なかつた。内容形式両方面の約束は、圏外の人々をとり残して、速かに展開して行つた。一人の新手法は模倣と言ふにはあまりに早く、他の人々の創作動機に入りこんでゐた。
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春の夜の夢のうきはし、とだえして、峯にわかるゝ横雲の空(定家)
霞立つ末の松山。ほの/″\と、浪にはなるゝ横雲の空(家隆)
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との「……に……るゝ横雲の空」の句は、調子から言へば、一つ物である。必、一方の拍子が、一方の作者の内律を刺戟して、一首全体を纏めるやうにさせたに違ひない。前の宮内卿・良経の作物も、強い印象が即時又は時を隔てゝ、創作動機を衝いた為に、類似の発想法を促したのであることは言へる。語・句から歌の様態までも、人々の間に伝染した。語・句の流行や、意義変化などは、仲間内では、急速なものである。其為に、変態的な発想法が、沢山に出来て、其が直に成長した。「おもかげに」の類の歌に出てゐる執こいまでの抒情気分は、もう一歩進めれば「春の歌」か「恋歌」かの弁《わか》ちがつかなくなる。
一体、叙事詩時代から伝《つたは》つた情景纏綿の発想法は、短歌様式に特殊な気分をつけてゐるものである。其に力添へる者は、枕詞・序歌・懸け詞・縁語・本歌などである。新古今同人の最努めたのは「恋歌」であつたことは、疑ひがない。彼等の最洗練せられた技巧は、其部に見えてゐる。如何にして、語の陰を多く重ね、幻影を匂ひやかにすることが出来るか。どうすれば、気分効果を深め、愛執纏綿の情調を出す事が出来ようか。此が彼等の執意で、実感は顧ることなく、風情に重きを置いた。贈答以外の恋を題材にした、力こめた作物は、大抵閨怨である。俊成以来、短歌製作の為の源氏物語研究などが効果を表したのである。
女流作家の恋歌は、如何にあはれに、如何に世の常ならず焦るゝかを表さうとして、心理解剖に陥つてゐるが、尚自分に即《つ》けて歌うてゐる。併し、新古今の主流のものは、作者はすつかり離れてゐて、歌の上に物語の女の俤をうつし出さうとする、小説作家の態度である。さうした女の心境を外界の風物に絡みあはせて気分的に表さうとする。譬喩と言ふよりは、象徴に近づいたものもある。が、すべて言語の修辞効果を利用して、心と物との間に浮ぶ虚象を融合させようとするのである。其ぴつたり合一せぬ点が、譬喩になつて了はないでゐる。此矛盾から起る気分が、象徴風の効果に近づかせるのである。
九 幽玄体
併し、此所謂幽玄体なる発想法も、新古今集に始まつたことではなく、前代から段々積り積つた結果の整理せられたものである。「恋歌」には、とりわけ内容の複雑なものが、次第に多くなつて来た。余裕ある古風な感情なら、枕詞以下の助けを借りて、一首の中に畳みこんでも置ける。が、おなじ複雑でも当代の尖《トガ》つた生活情調は、さうした修辞法では表されない。其で、女房等の「恋歌」には、直截な表現法をとつたものが多かつた。けれども、内容が多過ぎるのを、技巧を以て三十一音にはめこんだ為、其発想上の曲節はおもしろいが、意義の会得しにくい物もあつた。其等の歌から感じられる暗示的効果は多い。
かうした女房歌から出て、実生活から遠のいた表現だから、出来るだけ言語の影・幻を駆使することになつたことも、一面の事実であらう。尚一つは、平安末になつて、殊に屡《しばしば》行はれた神仏の託宣歌は、半以上理会出来ない物の、却つて包容する所広く、神秘観を誘ふことが多かつた。其等の影響も、歌と神仏との神秘関係を、今一度新に考へ直した時代であるから、さうした超描写性の効果に思ひあたる様になつた事情もあらう。
恋歌から出た発想法が、他にも及んで新古今調の主流と考へられたものが成立したのだが、今見ればさう言つた歌はわりに尠く、唯たけ[#「たけ」に傍線]――調子の張つた上に、単調を救ふ曲節のあること――を目安としてゐたことが知れる。
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うつり行く雲に、嵐の声すなり。散るか、まさきの葛城の山(雅経)
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なるほどたけ[#「たけ」に傍線]は同感出来る。だが、其為に「散るかまさきの」の句が確実性を失うた。殊に「散るか」の効果は浮いたものになつてしまうた。おなじたけ[#「たけ」に傍線]のすぐれた物にも
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樗《アフチ》咲く外面《ソトモ》の木かげ 露おちて、五月雨|霽《は》るゝ風わたるなり(忠良)
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かう言つた見事な歌がないではないのに。
新古今時代になつて調子の緊張が問題になつて来たのは、万葉の影響も、多少出て来たのではあるまいか。調子を変化させるのは、新語や歌詞で短歌を改革しようとするよりは内的で、意義がある。けれども、万葉の気魄を再現して新しい生命を短歌に齎《もたら》さうなどゝは、考へても見なかつた。併し、純粋な叙景の歌によい物が散らばつてゐるのは、経信以後の発達とばかりは思はれぬ。西行あたりにも、既に
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よられつる野もせの草の かげろひて、涼しく曇る 夕立の空(新古今)
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の様な趣向もなく、抒情味をも露出しない立派な写生の歌がある。私は、古今に近い傾向の万葉巻八・巻十あたりの四季の歌などが、直接間接に与へた影響を考へに入れないでは、其道筋のわからぬ処がある様に思ふ。
新古今の歌風の中、調子と、叙景態度とには、万葉の影響を無視することは出来ないと思ふ。万葉に対する撰者等の理会の程度すら、幼稚なものではあつたらしいが。ところが尚一つ、全体の上に与へた外の影響が考へられる。新古今当時、其撰者同人等は、連歌又は誹諧歌をも弄んだ。連歌は新しい興味として、可なり喜ばれたらしく、作物も多く残つてゐる。連歌及び後世の誹諧に於て、目につく句法は下句の緊張ぶりである。語句の有機的な活動であ
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