底前者に及ぶことが出来なかつた様だ。彼は、短歌に関する知識を以て、俊頼に対抗してゐた。彼が準拠としてゐる様に唱へてゐた万葉集に就ての知識・理会・消化の程度は極めて危いものであつた。一・二句万葉の引用をする外は、万葉調も出て居ない。彼の歌に、万葉の正しい影響などは、殆ど見ることが出来ない。寧、俊頼の作物に時々万葉の気魄の浮んでゐるものがあるなどは皮肉である。だが、さうした万葉主義をいだく様になつたのは、短歌が学問的基礎を欲してゐた時代だからである。此対立は、ともかくも平安末の短歌史上の見物である。さうして此二人の影響と、尚ほかに歌学の伝統を他から継承して、其を綜合して現れたと称せられるのが俊成である。此点から見ても、二人の歌風には、目を通して置かねばならぬ。
前にも述べたとほり、よかれあしかれ女性の歌は、短歌史上に特殊な領分を示してゐるのであるが、其かけあひ[#「かけあひ」に傍線]趣味を離れて、文芸化したのは、平安京の末に迫つてからである。
道長盛時を中心に輩出して、平安の文学態度を飛躍させた女房たちの中、幾分古風な者は短歌に止り、今様に進んだ連衆は、物語・日記に赴いた傾きが見える。女房歌の上手といふのも二色ある。一つは真に価値のあるものを作り出す情熱家。一つは場合々々贈答を、最《もつとも》適切に処理して、婉曲に、委曲に、あはれな感じを残すものを、而も口疾《クチド》に詠み出す機智のある人。だから、後者は当時人を感じさせても、普遍性のない、後世には訣らぬものも多い。それでも歌人として許されたのである。前の意味の歌人の、歌から出ないのに反して、後の方の女房は物語・日記類の脚色もある、歌の多く交つた散文に進んで、さうして、盛んに引き歌・故事・縁語等で、律文化した文章を書いた。

     七 実生活を詠んだ歌

物語の主人公は勿論、もでる[#「もでる」に傍線]を思はせる様な書きぶりで表されてゐる。其に配せられた女の主な者の中には、作者自身の影を濃く落すやうな書き癖が、其に通じてあつたらしい。此事実は日記になると殊に目立つ。日記には、単なる女房の後宮記録・執務覚え書きとしての外に、先例書・典故録と言つた側の職分から、知識宝典・詞藻類典の様な姿を採る物さへあつた。又、一方、個人の生活記録としての意味も既に出て来た。其例の物に伊勢物語系統の歌物語の型をとり容れて来たのがあつて、自分の贈答や述懐の短歌の製作動機を、あはれに書く風が出来た。かうした例には、或は他人が書いたのかと思はれるほど、脚色が加つてゐるのさへ見える。多くは事件に客観が出来ない処から、自身書きながら、事実を修飾・誇張して、物語風にしたてゝ了うたのである。
而もものゝあはれ[#「ものゝあはれ」に傍線]を知り、色をこのむ[#「色をこのむ」に傍線]――好もしい状態に男女関係を処理すること――のが、紳士・淑女の理想主義とせられた時代である。で、かうした小説と記録との間を行く抒情式な日記を書いた者及び其書き物は、宮廷生活の間にもてはやされたのである。此態度は、短歌集の中にも入りこんで来た。女房の歌集に見えた「はしがき」に、後人のは固よりだが、当人自身の潤色・見てくれを交へてゐることは考へてかゝらねばならぬ。私は平安京の中期以後の歌集殊に女房歌集から、個人の伝記を引き出さうとすることに、危さを感じてゐる。「はしがき」にあはれ[#「あはれ」に傍線]を競ひ、単なる座興のかけあひ[#「かけあひ」に傍線]をも有意義化したものが、必あるであらう。前にも述べた和泉式部の歌集をはじめ、さうした色あひは、大なり小なり見えるのである。
こゝに自然と起つて来るのは、文学動機の洗煉である。印象の再現若しくは、空想の具体化能力や、技巧の近接努力が進んで来る。叙事詩化し、心理の表現よりも描写に傾くが、ともかくも発生以来わるい道を通つて来た日本の抒情詩は、業平・小町につけられた方角から、活路を見つけ出した訣であつた。和泉式部の様な情熱家の作物は、さすがに不純を一挙に捲き飛した佳作が尠くない。内生活から、美化するに足るものを見出す様に向いて来てゐるのである。唯、女房歌集は、全体を叙事的連作歌集として味うて行くのが、ほんとうの見方ではなからうかと思ふ。
かうして展開して来た女房歌、其影響を受けた抒情詩は、緻密な感情の写実をする様になつて行つた。俊成女・式子内親王に代表せられた平安末・鎌倉初めの恋を主題とした歌である。だが其にも、語又は句の上から部分的に放射する情調によつて、しなやかで、ねばり強く、美しくて、纏綿する様に、技巧が積まれてゐた。それによつて、叙事式表現の上に気分効果を添へようとしたのである。語句の持つ聯想や、音韻の弾力を、極度まで利用してゐるのだ。併し、かけ語・縁語・枕詞・序歌・本歌などで、幻象を畳み絡めるのとは違うて、とにかく、内部からする発想上の弾力であるから、よい傾向であつた。
[#ここから2字下げ]
木の葉散る山|偏付《カタツ》きの笹の庵は、埋れぬべきふし処かな(待賢門院堀川)
[#ここで字下げ終わり]
かうした発想法は、短歌の細みを土台にして、女流好みの情趣を語句から引き出して、一首に光被したものである。頼政や西行などのにも、かうした実生活が、だしぬけに顔を出して、調和を破ることがある。
[#ここから2字下げ]
誰も皆、今日のみゆきに誘はれて、きえにし跡をとふ人もなし(堀川)
[#ここで字下げ終わり]
此歌の「誰も皆」は、実生活から来た口語式発想に近いものである。好忠・俊頼の新傾向や、僧家の歌や、連歌などから養成せられた現代語趣味は、平安朝末の抒情歌、主としては「述懐」風のものに用ゐられたが、其も一時のはやりで、仏徒の外には用ゐなくなつて了うた。
[#ここから2字下げ]
これ聞けや。花見る我を 見る人の、まだありけりと驚かすなり(頼政)
[#ここで字下げ終わり]
連歌趣味が露骨に出てゐるが、実生活の響きがほのかに聞える。頼政以後、西行・秀能などの武士階級の歌人が、見出しに預る様になつて来たのは、一つは武家興隆の時勢だつたからでもあるが、題材や、見方・感じ方の、幾分型に入らない処を珍重せられたのであらう。頼政の面目をあげたのは、経信の系統に薬を強くした絵模様や、絵詞見立ての趣向歌の印象の新鮮な点が、さうした潮先に乗りかけた為である。
西行にもさうした渾沌たる実生活味や、誹諧趣味・口語式発想・趣向歌等がある。さうしたおし窮つた処から、西行を脱け出させたものは、女房歌のねばり気と、廻国修行から得た生活の種々相の理会や、孤独感に徹して起る人生の普遍観である。歌を通して見た西行には、仏教の影響は、人々の考へてゐるよりは、わり合ひ深く潜んでゐる。却つて、当時――平安末・鎌倉初め――の概念式な釈教歌・讃歌の類を作つた公卿たちよりは、囚れぬ境涯を示してゐる。学曹でなかつた為もあらう。けれども、此頃から頭を擡《もた》げ出して、武家時代の最後二百年を除く外は、伝統的に文学及び倭学継承階級となつた所の隠者の生活に近い形で暮して居た事が、主な原因であらうと考へる。地方の武家に、短歌や、倭学の伝へられたのは、もう此頃からの事実であつた。西行が殆ど完成し、芭蕉に飛躍させられて、誹諧に移植せられた内容のさび[#「さび」に傍線]、形式のしをり[#「しをり」に傍線]は、実は女房歌の模倣を経て、達し得た「細み」であつたのだ。此が西行の幽情に、誹諧の「さび」よりも、曲節や、弾力のある所以である。
此細みを抽き出した原因の一つに、数へ残しがある。其は雰囲気の力である。当時の京都の文壇主義の影響である。経信に著しく見えた幽情が、公卿の流行となつてゐた仏教凝りや、釈教歌・法楽の歌などに溢れた仏教味に合体した為、と言ふ様な速断は許されない。併し、かうした間の生悟りから、万有無実相・庶物一如の義を曲解敷衍して、
[#ここから2字下げ]
心なき身にも、あはれは 知られけり。鴫たつ沢の秋の夕ぐれ(西行)
見渡せば、花も紅葉も なかりけり。浦の苫屋の秋の夕ぐれ(定家)
[#ここで字下げ終わり]
など言ふ様な物の出来る機運は醸《かも》されて来た。悪い傾向だが、やはり一種の単純化である。
勅撰集の出る毎に、非難者の出る風は、後拾遺集に経信が試みた、と言はれてゐるが、此などは早いもので、其後、いつもあつたことである。さうした論難の癖は、恐らく、平安京の初頭にも既に、行はれたらうと思はれる――或は其以前からも――「歌合せ」の席上の討論の風が理論化せられて、歌式となり、歌論となり、更に、勅撰集撰者の態度批評とまでなつて来た。歌人の間にも、短歌の沿革・様式論・故事出典を集めて、学問にするものが出て来た。顕輔の伝統の所謂六条派の歌学や、歌の師範が起つたのも、当然の順序である。其子清輔・顕昭等から、学問としての色合ひが立つて来た。
日本の書物が学問の対象となつたのは、日本紀が始りで、万葉が其次に古点・次点を加へられ、平安の末に源氏が研究の目的になつて来た。俊成などが、源氏学の先駆者である。其等の間を縫うて、歌学が段々、物になり出した。歌学の始りとしては、まづ、古今を中心にした故事の詮索から、古くは万葉、新しくは後撰以後の出典・歌枕などまでに手が及んで、日本学としての姿を具へ出して来た。けれども、修辞論や不純な様式論が交つてゐた為に、容易に学問化は出来なかつた。かうして、創作態度に学問理論がわりこんで来た事実が、平安末の短歌に見えるのである。
短歌に神秘観を抱くことは、古代からであるが、俊成にとつては、作物の一つ/\は、報謝の為に作らるべきものであつた。かうすることが、彼として仏恩に酬ゆる唯一の道だつたのである。自己を虚しうして、歌に当つたらしい人であつたのだ。だから、彼の歌には、安住があり、輝いたあきらめがある。
[#ここから3字下げ]
千載集えらび侍りける時、古き人々の歌を見て、
[#ここから2字下げ]
行く末は 我をもしのぶ人やあらむ。昔を思ふ心ならひに(新古今)
[#ここで字下げ終わり]
さすがに、野心を蔵した歌も盛んに詠じてゐるが、年よつて、段々静かに、平易に詠み出す様になつて行つた。もつと感激が出ねばならぬ所だ。
[#ここから2字下げ]
如何に言ひ、いかに弔《ト》はむと 思ふ間に、心もつきて、春も暮れにき(玉葉)
[#ここで字下げ終わり]
拘泥することなく、つぶさに述べ尽してゐる。併し情熱は失はれてゐる。近世の僧家の歌人などに多い、自在であつて、併し心の拍子の出ない歌の類である。でも、かうした調子を具体化する為に、短歌史上に類例少い長い生涯を文学の為、又此を通して、仏の為に費して来たのであつた。此等の歌は、当時の口語律に近づいて居た物であらう。彼自ら、自讃歌と推した「夕されば」の境地は、此風に野心を交へた概念歌で、上句の外は採れない。調子づき過ぎて、若々しい。
だが、彼の自ら否定した
[#ここから2字下げ]
おもかげに 花の姿をさき立てゝ、幾重越え来ぬ。峰の白雪(新勅撰)
[#ここで字下げ終わり]
は、なる程、俊成の態度から見れば、前期に属するものである。こしらへ物だ。が、印象は明らかに来る。
[#ここから2字下げ]
夕されば、野べの秋風身に沁みて、うづら鳴くなり。深草の里(千載)
[#ここで字下げ終わり]
の方は、印象がうぢや/\[#「うぢや/\」に傍点]してゐる。幽情も、やはらぎも見えない。此が、俊成の第二種の代表的な発想であらう。世間はそれでも「おもかげに」の傾向を愛して、其に傾き寄つた。新古今の歌壇は、此歌などを出発点として、展開を重ねて行つたのに違ひない。
俊成は、鎌倉はじめまでも、歌壇の長老として、残つてゐた。けれども彼の歌の平易は、四句讃歌(梁塵秘抄調)に近づいてゐる間に、若い人々の間には、めざましいと言ふより、目まぐるしい変化が起り続けて居た。

     八 新古今の歌風

新古今集の撰定の幹部等にとつて、先輩となつてゐた人たちは、多くは入道生活をしてゐた。俊成・西行・慈円・寂蓮・寂然――此等の法師や居士の間に漂ひ出るも
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング