てゝゐる様子が、目に見える様なものもある。其等は技巧を弄してゐるが、そんなものにまで見える事は、恋歌通有の軽みのなくて、重くるしいことである。又、恋愛を題にして歌つたらしいものは、恋人に与へた抒情歌に比べると、非常に格が下つてゐる。やはり情熱派として天分の高い人だつたのである。たとひ其作物に、現代まで段々進んで来た標準から見ては、無条件に採ることの出来ない箇処々々が、必あるとしても、彼の恋歌は、万葉の相聞歌の大部分よりも、態度としては、純正なものになつて来てゐる。其屈折の激しい発想も、当時の公卿階級通有の拍子で、業平が其傾向を進めるに、与つて力のあつたものと見てよからう。源融・小野篁などの歌と並べて見れば、此は新様ではあるが、共通なものが認められる様である。上流の作物にはまだ、万葉の拍子が痕跡を消しきらずに居たのである。調子を張らうとする努力が、かうしたしな[#「しな」に傍点]を、姿の上に顕した訣である。
六歌仙は、形の上から見れば、万葉と古今との過渡期を示すものだが、全体としては、古今調と言うてよい程に、後者に非常に近よつて居る。六人の中、業平と並べて論じられるのは、世評のとほり、小野[#(ノ)]小町である。男たちとの贈答に、柔軟な而も折れ合はぬねばり気を、調子の上に見せて居る。恋愛心理の解剖は、新古今前後に盛んになるのだが、其先駆者は小町であつた。といふよりも、小町を偶像視した後代歌人に、僅かな歌が、大きな影響を齎した。併し其はよいものではなかつた。小町のものはまだ抒情詩としての潤ひを失はないで居るが、後々のものは小説家が、生活を観照する様な態度になつて、抒情詩の領分を離れて行つた。小町集の中に、一首
[#ここから2字下げ]
ひぐらしの鳴く山里の夕ぐれは、風よりほかに、訪ふ人ぞなき
[#ここで字下げ終わり]
と言ふのがあるが、真に小町の作物とすれば、古今調のよい方面にも、踏みこみかけて居たと言へよう。
六歌仙と前後する頃又は、平安京最初の時分の――中には、万葉のものも入り込んでゐる――人々のだと思はれる無名氏の作物には、古今集の中での、最価値のあるものが多くある。此等の歌に現れた細みは、家持の境地を、柔らかにふくよかな言語情調で包んだ趣きの深いものである。
[#ここから2字下げ]
木の間より洩り来る 月のかげ見れば、心|労《ヅク》しの 秋は来にけり
蜩の鳴きつるなべに、日は暮れぬ と思ふは、山の陰にぞありける
鶯の鳴く野べごとに来て見れば、うつろふ花に、風ぞ吹きける
[#ここで字下げ終わり]
などが其例である。小町の「風よりほかに」の歌も、古今には無名氏の作物として居る。万葉の「太み」は、竟《つひ》に継承する者がなかつた。ますらをぶり[#「ますらをぶり」に傍線]を叫んだ真淵以後も、さうした試みをした人がない。調子を高くするだけなら、釈教歌から出た平安末・鎌倉初の歌人たちにもぼつ/\ある。調子を壮《さか》んにする事で、太みある発想を導くことは、「細み」の場合の様には行かない様だ。
五 古今集の歌風
古今の作家では、四人の選者のうち、壬生[#(ノ)]忠岑が一等天分が豊かな様だ。貫之は、一種の改革家で、要領を掴む才能は持つて居た。稍《やや》物になりかけた国語を以てする文章を、小ざつぱりした感じのよい、段落の短いものにしたのも、彼の為事らしい。歌の方面では、上流の重くるしい調子の、変化のない内容をやゝ軽くて明るいものにした。山部[#(ノ)]赤人の態度を、新しい歌のとるべき道とした。自然から「美」を覓《もと》めないで「美」に似た事象のある所とした。理想の「美」を絵画に据ゑてゐた。が、其も墨書きや彩《ダ》み画《ヱ》の絵巻若しくは、屏風の構図であつた。自然は、平凡な絵模様に描き直された。彼等の空想に浮ぶ自然は類型に過ぎなかつた。併しさうした「美」以外に、問題となる自然はなかつた。黒人以来の自然描写の態度は、彼等の心には影もさゝなかつた。彼等は調子の上に、自負を持つて居たらしい。朗らかで軽くひきしまつた、滑らかでさつぱりした長閑さが、彼等の新しい歌の生命を扼《やく》する音律であつた。
四時の交替と自然の変化の関係に興味を持ち過ぎた傾向は、万葉集の巻八・巻十にも既に見えてゐるが、情熱がよく解決した。古今集以後、暦日と自然現象の矛盾に興味を持ち過ぎて、幼稚な構想を、明るい調子に託して歌ひあげたものが多くなる。抒情の歌で見ても、選者等の目ざす処は、淡泊な感情を、例の調子で拘泥なく歌ふことであつた。生活から游離した心境を娯しむことが、彼等の生活の上の「美」であつた。貫之の歌は、其理想通りの形をとつた。かうした態度からよい作物の現れよう筈がない。貫之の歌は、名のみ高くて、実の其に添はぬ物であつた。
忠岑だけは、其仲間に列つてゐて、大して彼等の主張と喰ひ違ふことなく、而もかなりの値打ちある作物を出した。無名氏等の歌に現れた「細み」は、彼に明らかにとり入れられてゐる。尤《もつとも》、あゝした態度からは、わるい作物も生れないはずはない。けれども、忠岑はそうした処から、深く印象する歌を残したのだから、天分の豊かであつたことが思はれる。
畢竟古今集は、万葉集の細みから筋を曳いてゐると言うてよい。さうして其が二様に現れた。一つは、細みを正しく育んで行つたものであり、一方は、赤人風の優美を目標にして、当世好みの題材と調子とを扱はうとしたのである。後者は古今の正調であり、まづは文学態度として見る事の出来るものである。が、作物の価値は却つて、しづかな情熱を以て技巧を突破した形の前者の方にあつた。而も此間に介《はさ》まつて、女性の歌は、亦変つた道を採つた。謂はゞ万葉以前からの贈答歌の態度が伝つてゐて、而も宮廷の女房生活に伴ふ、しらけた遊戯分子が加つて来てゐるのだ。
かうして、古今の歌風と言ふものが出来た。此で短歌がともかくも文学と立てられ、其本質も、ほゞ成立した様なあり様である。此から後は、古今選者たちの立てたものを絶対に信頼して行つた後進者の、纔《わづ》かづゝの時代的の※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《アガ》きを見るに過ぎないのである。
後撰集には、其でも古今に対する競争意識が見えてゐる。拾遺集になると、古今を理想とし出した痕があり/\と見える。後拾遺集には、もはや行きづまりが見え出した。唯、宮廷其他の女房生活の頂上とも言へる時代で、男性の文学動機は鈍つて来たのに、散文のみならず、短歌にも自在をふるまふ様になつた。贈答或は恋歌に限られてゐても、其感触は洗煉せられて来てゐる。が其も見渡しての話で、一つ/\の歌に就て言ふと、寂しまずには居られない。和泉式部は、其中ではづぬけてゐる。小町よりも、情熱的にさへ感ぜられる。
六 短歌改新に与つた人々
曾根好忠は、歌の固定した事を其野性の敏感でとりわけ早く嗅ぎつけた。さうしてその抜け路として、表現法を易《か》へようと試みて、単語や句法の上に苦心をした。其処に印象の鮮やかな、新しげな作物も生れて来た。けれども、真の内容や趣きの発想と言ふ点には心づかなかつた。然し、よい作物になると、無自覚にではあらうが、「細み」が十分に出て来てゐる。短歌の固定する毎に、新語を以て其を救はうとする試みが、歴史的にくり返されてゐる。其次には、珍らしい材料――寧《むしろ》、名詞――を局部的にとりこむ事が行はれてゐる。此が「歌枕」と称せられるものだが、歌の全内容となる題材としてゞなく、修辞上の刺戟の為ばかりに使はれた様である。
かう言ふ処へ、平安京に於ける広い意味の芸術の天才らしい人が出て来た。桂大納言源経信である。彼は当時の文学芸術のすべてに達したと言はれた人である。殊に琵琶では、桂の一流を開いた人であつた。「君子器ならず」と言ふが、天才の直観力も、才能の専門的固定を救ふものである。今存する彼の作物は、あまりに尠い。此から彼の才分をきめるのは気の毒な気もする。が、偶然を考へることの出来ない個性の透徹した作品がある。
[#ここから2字下げ]
朝戸あけて 見るぞさびしき。傍丘《カタヲカ》の 楢の広葉に ふれる白雪(千載)
ひた延《ハ》へて守《モ》る標《シ》め縄の たわむまで、秋風ぞ吹く。小山田の庵(続古今)
[#ここで字下げ終わり]
後のは桂の里での作であるが、四五句の続きのあやふさが、其写生に徹して居ない事を見せて居る。唯《ただ》二三句の緊張は、観照の把持力を思はせる強さである。前の歌になると、細みが展開せられて来てゐる。楢の木は作者の誤解かも知れぬが、広葉と言うた処から見れば、木立ちを見渡したのでなく、一本の木の局部に目を注いでゐるのである。私はかうしたものが、尚あつたのであらうと思ふ。此歌の如きも経信集にはなくて、千載集にのみ見えてゐるのから見ても、此想像の余地はある。一体、経信には、新しい趣向の歌が多くて、其が本領と思はれたらしい。
[#ここから2字下げ]
山守りよ。斧の音高く聞ゆなり。峰のもみぢは、よきてきらせよ(金葉)
深山ぢにけさや出でつる。旅人の笠白たへに雪つもりつゝ(新古今)
(家集……ぢを……雪はふりつゝ)
夕日さす、浅茅が原の旅人は、あはれ、いづくに宿をかるらむ(新古今)
早苗とる山田の筧《かけひ》もりにけり。ひく標《シ》め縄に 露ぞこぼるゝ(新古今)
大井川 いはなみ高し。筏士《いかだし》よ。岸の紅葉に あからめなせそ(金葉)
[#ここで字下げ終わり]
此中、一と五は、平安末の趣向歌の先駆で、古今のものとは別途ではあるが、正しい道ではない。第三の歌も追随者の多かつた型であるが、まだ趣きは失はない。併し「あはれ」が、同化しきれない不純なものを交へてゐる。客観し得ないで、小我を出してゐる。或は釈教歌などの影響かも知れない。此歌と、第四の歌とは、細工物らしいが、大体に正しい方へ歩みよつてゐて、鎌倉以後の模倣者によい類型を残した。
[#ここから2字下げ]
三島江の入江のまこも。雨ふれば、いとゞしほれて 刈る人もなし(新古今)
[#ここで字下げ終わり]
は写生ではないが、趣きからは完成してゐる。此歌と「朝戸をあけて見るぞ寂しき傍丘《カタヲカ》の楢の広葉にふれる白雪」とは、別趣の物だが、細みと、静けさと、温みとは共通してゐる。
[#ここから2字下げ]
今宵 わが 桂の里の月を見て、思ひ残せることのなきかな(金葉)
花の散るなぐさみにせむ。菅原や、伏見の里の岩つゝじ見て(経信集)
[#ここで字下げ終わり]
ところが、此歌などになると、少し虚《キヨ》してゐる様な歌口である。病的ではあるが、一種の単純化はある。かうした点も、彼の、他人と違ふ処から来るのであらう。経信の歌風を、よいにつけ、悪いにつけ、全体としてとり入れてゐるのは、西行法師である。
俊成も、その幽情を目がけたのは、此人の影響を意識してとり入れてゐるのである。私は、経信に、千載及び新古今の歌風の暗示が、含まれてゐたのであると思うてゐる。
好忠の後に出て来た短歌改新の二番手は、経信の子の俊頼である。好忠よりは時代自身、固定を感じることが深くなつて来てゐるから、彼の試みは、更に大胆になつてゐる。歌枕も、修辞の上ばかりでなく、全体としてとりこまれてゐる。其結果、歌が著しく叙事詩的の興味に陥つて来た。民間伝承などまで思ひのまゝに採用して、誹諧歌に似た味ひが出て居る。尤、彼は連歌の滑稽味を愛好した。彼は、短歌に対して、刺戟はかなり与へたが、結局其本質と、反りの合はぬ態度を持つてゐたのである。彼の喜んだ新しい材料は、連歌・誹諧を通じて後に完成した季題趣味を導いた。其程、彼の作風は、連歌及び誹諧の成立の為に効果を顕したのである。鎌倉初めには、歌・連歌、有心・無心の対立となり、室町になつては、明らかに短歌に対する文学として、競争者の位置を占めた連歌及び誹諧味は、彼によつて飛躍の機運が作られたものと見てよい。併し、私は彼の作物の価値を短歌として見ても、世評以上に高く買ひたく思うてゐる。
俊頼に対して旧風を守つてゐたのは、藤原基俊である。天分に於て、到
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング