リト》などは、新作を以てする様になつても、特別の心構へを以てせねばならなかつた。歌も宴席で吟ずる物は多く古詞で、新作は神聖さが尠いのである。天子・皇親に対しての呪言の系統なる「ほぎ歌」を予め作つたのは、氏[#(ノ)]上としての古い神秘を忘れなかつたからである。だから、奈良朝末に、短歌製作気分が衰へてゐたとしても、家持の古詞採蒐・賀詞予作を以て其証拠とする事は出来ない。
其ばかりか家持は、歌人として時代を劃するだけの天稟《てんぴん》を備へてゐた人であるのだ。黒人の開発した心境は、家持が此を伝へて、正しく展開させて、後継者に手渡して居る。家持は、長歌は、憶良程達意ではないが、概念風な処は幾分尠い。思ふに、人麻呂が長歌を飛躍させ、叙事詩から抒情詩の領分に引きこんだが、同時に其様式を極端に固定させて、自在を失はせた。奈良の宮廷詩人・貴顕文人等の間に幾度繰り返されても、生命のない模倣と外形の過重せられたものばかりしか出来なかつた。だから短歌の価値・態度ばかりから、此人の才分・文学史上の価値を、きめてもよいのである。
家持は、黒人の瞑想態度・観念的作風に深入りすることを避けて、今少し外的に客観態度を移した。感じ易い心を叫び上げないで、静かな自然に向いて、溜息つく様な姿を採つた。さうした側の歌が、彼の本領でもあり、開発でもあつた。黒人よりも、作者自身の姿が浮んで、而も人に強ひない。ほのかに動くものゝ、沁み出る様に、調子を落してさゝやいて居る。武人・族長など言ふ自覚を唆りあげて、人を戒めてゐる作物などは、短歌でもよくない。けれども、さうした側の長短歌を通じて見られるよい素質は、よい平安人の先ぶれだつたことを思はせる。人を戒めても犒《ねぎら》うても、其|語《ことば》つきには、おのれを叱り、我を愛しむ心とおなじ心持ちが感じられる。家門を思ふ彼は、奈良の世の果ての独りであつたが、神経や、感覚は、今の世からも近代風な人と言ふことが出来る。人麻呂の影響は、却つてわるく出てゐて、寂しいうら[#「うら」に傍線]声を叫び上げる様な作品を残した。

     三 平安初期の大歌

平安朝では早く、大歌は、短歌が本体と見られる様になつて了うた。そして宮廷に其を用ゐる事は、恐らくは、鎮魂祭と神楽の場合との外は段々廃れて行つた。其他の宮廷詩は「詠」を主とせぬ雅楽の影響を受けたり、又は伝統を失ひ、さらでも時の花となる資格の永久にない声楽のわき[#「わき」に傍線]役であつた事から、舞あるものは舞に先立つて亡び、舞のないものは、新宮廷詩の創作の盛んだつた奈良或は其前から、伝へる者も張り合ひなく、永劫の世界に持ち去られた。謡ひ物としての短歌の末は、古今集・拾遺集の大歌所の歌、其他「神楽歌譜」に記録せられた分を最後と見てよい。
併し、仏家の讃歌方面には、尚一脈の生気が保たれて居て、声楽上の曲節は声明《しやうみやう》化しながらも、平安末に大いに興る釈教歌の導きにはなつた。謡ふ物としてゞなく、神の託宣の文言として、歌が文学以外に口誦せられた事は、室町の頃までも続いたらしい。歌占《ウタウラ》を告げる巫女の口に唱へられる歌であつて、此も神託とは言ひでふ、其所在の大寺の庇護を受けた社々にあつた事故《ことゆゑ》、やはり長篇の讃歌から単純化した今様と、足並みを揃へた曲節であつたらう。かうして室町から江戸に持ち越したなげぶし[#「なげぶし」に傍線]などの、擬古的な文句に仮りに用ゐられて、どゞいつ[#「どゞいつ」に傍線]・よしこのぶし[#「よしこのぶし」に傍線]の分化する導きとなつた。が、其は、真の生命あるものとしての短歌ではなかつたのである。
大歌が短歌を標準とすると共に、短歌は唯一文学としての位置を占め得た。その為奈良の盛時までもあつたらしい宮廷詩人の為事が、辛うじて勢を盛り返して、享楽文人の手に移つて行つた。
大歌の新作は、大歌の用途が狭まつた為に無くなつたが、貴顕の参詣・願果しなどに社々の神の享ける法楽の詞曲として、短歌の新作せられるのが例であつた。東遊《あづまあそび》の歌が其である。其が、讃歌と一つに考へられて、舞踊抜きに歌だけを献じる風を生じた。此が法楽の歌で、平安の都も末になるほど、神祇歌・釈教歌の流行に連れて、益々盛んになり、数も多さを競ふやうになつて行く。
神事舞踊の曲には、替へ唱歌が、多く用意せられて居なければならなかつた。
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大原や小塩《ヲシホ》の山も、今日こそは、神代のことも、おもひ出づらめ(古今集巻十七)
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の歌も、二条后の社参に随行した在原[#(ノ)]業平の、あてつけ[#「あてつけ」に傍線]歌だと言ふ事になつてゐる。けれどもやはり、其は伝説であると思ふ。此時代にも既に、法楽の舞が献ぜられる風があつて、其詞章として召された時の、唯の神遊びの歌に過ぎないのを、いつかさういふ曲解が此歌の背景となつたのであらう。かういふ当時の歌人と許された人々の、神遊び歌を召されると言つた風が、宮廷詩人の俤《おもかげ》を見せて居るのである。
家持は平安の都に遷る前、長岡の都造営中に亡くなつた。晩年になつて一度、死後にも復《また》、疑獄に坐した。さうして平城天皇の御宇までは許《ユ》りなかつた。家持が壮《をとこ》盛りに、出入《でいり》した歌※[#「にんべん+舞」、第4水準2−3−4]所の内の後に(或は当時も)大歌所と言つた日本楽舞部の台本(伝来の大歌・采風理想から採集した民謡集)や、雑多な有名・無名の人の歌集や、家持自身大部分材料を蒐めて整理して置いた大伴集――仮りにかう名をつけておく。家持の近親・縁者・知人の贈答・創作歌の上に、自身でも集め、人にも依頼して蒐めた様々な詞章の集団――や、大体此三部類の資料が、万葉集の名で纏められようとしたのが、平城天皇の時代の事であつたらしい。此天子は奈良の古風な生活に愛著深く、情熱も強く、作品も(疑はしいが)残つて居りする方であつて、其孫王に行平・業平が出たのも納得出来る。

     四 六歌仙の歌

業平の生活は、小説だといふ訣で、伊勢物語からひき放して考へようとしても出来ないまで、彼《かの》書が完全に其一生を伝奇化して了うてゐる。私は、張文成・宋玉・登徒子等の一人称発想法を採つた遊仙窟や、楚辞末流(此は既に伝来してゐたと信じる)の艶文学が、奈良の貴族や、学者を魅した力は、平安の都にも持ち越されてゐたものと思ふ。それで業平一代の自叙伝と思はせる企図を持つて、伊勢物語は書かれたものであらう。三人称風の叙事詩や、それから散文化した説話の表現法の定型を採りながら、叙事詩以来の聞き癖を利用した痕が見える。特別な知人がする物語でなければ、語り手・話し手の自叙伝と感じる風が離れない為に、しらばくれた[#「しらばくれた」に傍線]様な気分をさせる「昔男ありけり」といふ型で、十二分に効果を収めたのである。
業平の生涯は平安の色好み(大体後世のすゐ[#「すゐ」に傍線]に近い)の前型とまで考へられて来てゐるけれども、二条后・斎内親王との交渉がなかつたとすれば――或はまる/\の伝説だつたとすれば――、惟喬親王が、業平に美しい感激を発せしめる境遇に沈淪せられなかつたとすれば、業平は記憶せられなかつたらうか。私は決してさうではないと思ふ。業平の歌の背景なる伊勢其他の伝説がすつかり消えても、歌だけで、伝ふる事の出来た人である。彼の歌は、家持のや黒人のと違うて、自然の前に朧ろに光る孤影を見入つてゐた心、其を更に外へ出して、他人の心の上に落ちる自分の姿を瞻《みまも》つて、こゝにも亦、寂しく通り過ぎる影しかないことを、はかなんでゐる様な心境である。彼の調子は、家持の細みを承けてゐる。併し業平の違うてゐる処は、事実に即した複雑が、真の単一に整頓せられたのではなく、それに対する方法として、出来得る限りの節約を用語の上に行うてゐることである。文法の許すだけは、言語の影を利用し、曲節を附けて、姿態の上に細みを作らうとしてゐる。調子でなく、内容と形式との交錯から来る趣きを整理しようとして居たのである。
だから、業平の作物には、趣きを出す為に無用の論理に低徊することがある。
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月やあらぬ。春や昔の春ならぬ わが身一つはもとの身にして(古今集巻十五)
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の如きは、姿の為に却つて趣きが犠牲になつてゐる。月にも、春にも依然たる旧態を見ると、印象を強めた上に、柔軟性を失はせる反語の圧迫を感じさせる。下の句の自由な拘泥のない「わが身一つはもとの身にして」の調子が安易に浮いて聞える。恋人の上を言はないで、我が身を言ふのも、上の句の形式上の曲節が過重して居らなければよかつたらう。が此場合、下の句の内容の上の曲節が堪へられなくなつてゐる。さういふ処へ、又此反転法に行き遭ふ為、論理の遊戯を厭《いと》はしくさへ感じる。姿は自在の様であり、発想は曲節を尽して居る様だけれども、業平の特色とせられてゐる余韻が、形式は固《もと》より内容の上にもなくなつてゐる。「心剰りて、詞足らず」と古今集序の貫之の評語は、実は「詞剰りて、匂ひ足らず」とでも言ひ替へねばなるまい。
彼に、若し、自然に対する理会があつたとしたら、情景の絡みあひから生じる趣きは、姿のしな[#「しな」に傍線]と相俟つて、真の象徴発想を闢《ひら》いたであらうに、黒人から赤人に、赤人から家持に伝《つたは》つた調子の「細み」と、幽《かそ》かでそして和らぎを覚える「趣き」は、彼にも完成せられず、壬生[#(ノ)]忠岑になつて、稍其に近よつたものが出て来たゞけであつた。偶発的に時々「趣き」を出した者があつても、さうした心境を把持し得た者はなかつた。平安の都も末に近づくと、態度としてさうした境涯を自覚し、標榜する者が出て来た。併し仏教知識の影響を受けたもので、万葉に現れた「細み」の正式に伸びたものではなかつたのである。
業平は自然に対して驚くばかり無感激であつた。其叙景の歌とても、宴遊の即景に祝言を託する様なものか、人の意表に出る様な誇張や、言ひ廻しで、興趣の嵐を起して、当座の人の心を捲き込んで行くと言ふ風なものであつた。
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あかなくに、まだきも月のかくるゝか。山の端《ハ》逃げて、入れずもあらなむ(古今集巻十七)
狩り暮し、たなばたつめに 宿借らむ。天の川原にわれは来にけり(古今集巻九)
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などを見ても知れる。拘泥なく歌ひ上げてゐる。さうして其詞を押し出して、一挙に「心」を形づくるのは、機智だけでは出来ぬことである。そこに濫費せられてゐる情熱があるのだ。彼の生時は、其宴遊の歌の、在来の型を破つた新しさ、放胆らしい其調子によつて、騒がれてゐたものであらう。業平の作品の時代的評価は抒情詩以外にも、あつたことを考へに入れて置く必要がある。
何と言つても、業平の真の価値は、抒情詩を醇化した点にある。万葉集の抒情詩すら、叙事詩脈の劇的表現・民謡式の誇張発想・儀礼上の伝襲的叙述法などから出来たと言ふ事情の忘れられた後代に、古代人の素朴と言ふ予断で、製作動機も醇化せられ、不当に高く評価せられたものであつた。贈答・問答の類も、歌垣の唱和から筋を引くもので、かけあひ[#「かけあひ」に傍点]特有のあげ足とり[#「あげ足とり」に傍線]・はぐらかし[#「はぐらかし」に傍線]・人たらし[#「人たらし」に傍線]・情らしさ[#「情らしさ」に傍線]などが皆過分に含まれてゐる。恋愛発想の歌が贈答せられたからとて、恋仲の人々と速断することは出来ない例が多い。今も、男女の贈答文章に、恋愛気分が纏綿してゐるのは、古い歴史のあることである。
かうして見ると、平安宮廷の女房生活を、其等の人の歌詞から推して、紊《みだ》れきつてゐた様に言ふのは間違ひである。万葉さへさうであつた。後世ほど、浮薄な技巧を弄するやうになつたのは、当りまへである。前後にさうした歌を控へながら、業平の作品は、さうしたかけあひ[#「かけあひ」に傍線]風の贈答にも、まじめなものが多い。相手の笑ひを誘はうと企
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