短歌本質成立の時代
万葉集以後の歌風の見わたし
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)乱《ヲサ》め

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)実の処|此《この》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)歌※[#「にんべん+舞」、第4水準2−3−4]所

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)山部[#(ノ)]赤人

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)まる/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     一 短歌の創作まで

短歌の形式の固定したのは、さまで久しい「万葉集以前」ではなかつた。飛鳥末から藤原へかけての時代が、実の処|此《この》古めいた五句、出入り三十音の律語を意識にのぼせる為の陣痛期になつたのである。
囃し乱《ヲサ》めの還し文句の「ながめ」方が、二聯半に結著したのも此頃であつた。さうして次第に、其|本歌《モトウタ》なる長篇にとつて替る歩みが目だつて来た。記・紀、殊に日本紀、並びに万葉の古い姿を遺した巻々には、其《その》模様が手にとる如く見られるのである。かうした時勢は、宮廷の儀礼古詞なる大歌《オホウタ》(宮廷詩)にも投影した。伝承を固執する宮廷詩も、おのれから短篇化して行つた。さうして民間に威勢のよかつた短歌の形が、其機運に乗り込んで来た。
かうして謡ひ物としての独立性を認められた短歌は、其《それ》自体の中に、本歌《モトウタ》及び、助歌反乱の末歌《スヱウタ》の二部を考へ出して、ながめ[#「ながめ」に傍線]謡ひを以て、間を合せた。「57・57・7」から「57・5・77」へ、それから早くも、平安京以前に「575・77」に詠み感ぜられる形さへ出て来たのは、此為であつた。
第二聯の5の句が、第一聯の結びと、第二聯の起しとに繰り返された声楽上の意識が、音脚の上に現れて、句法・発想法を変化させて行つた。くり返しや、挿入の囃し詞《ことば》は自由に使はれても、主要な休止の意識は「575・577」の形を採らせた。此には、一つ前の民謡の型として、尚《なほ》勢力を持ち続けて居た結集《ケツジフ》唱歌出身の旋頭歌《セドウカ》の口拍子が、さうした第三句游離の形と発想とを誘うたのである。それが更に、短歌分化の根本律たる末句反乱の癖の再現した為に、最後に添加せられた7の囃し乱《ヲサ》めの力がはたらきかけて「575・777」と言つた諷誦様式を立てさせた。而も最後の一句は、百の九十九まで内容の展開に関係のない類音のくり返しであつた。
歌が記録せられる様になるに連れて、此即興的な反覆表現はきり棄てられて、完全に「575・77」の音脚が感ぜられる様になつて来る。かうなつて来ると、声楽の上では、旋頭歌と短歌との区劃が明らかでなくなる。さうして、尚行はれてゐる短歌の古い諷誦法「57・5・77」型の口拍子が、却《かへ》つて旋頭歌の上に移つて来て「57・7・57・7」又は「57・7・577」或は「57・75・77」となり、遂には「5・77・577」と言つた句法まで出来て行つた。
短歌が、声楽から解放せられて、創作物となり、文学意識を展《ひら》いて行つたのは、亦《また》声楽のお蔭であつた。私は此分離の原因の表面に出たものを「宴遊即事」にあると見てゐる。新室《ニヒムロ》の宴《ウタゲ》及び、旅にあつての仮廬祝《カリホホ》ぎから出て来た「矚目吟詠」は、次第に叙景詩を分化して来た。列座具通の幽愁の諷誦が、既に意識せられて居た抒情発想の烈しさを静め、普遍の誇張から、自己の観照に向はせて居た。其処《そこ》へ、支那宮廷の宴遊の方式と共に、厳《カザ》り立てた園池・帝徳頌讃の文辞が入りこんで来たのだ。文化生活の第一条件は、宮廷の儀礼・集会を、先進国風に改めることであるとした。
歌垣を飜訳して踏歌と称し、宮廷伝来の春のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の室踏みの歌舞をさへ、踏歌と改称する様になつた。朗詠の平安の都に栄えた理由として、踏歌《タウカ》の節《セチ》の「詠」に美辞を練つた事を第一に言ふべきである。而も踏歌の夜の詞曲は、唐化流行頂上の時勢にも、やはり大歌や、呪詞が交へ用ゐられた。
朗詠が、異様に、長目な音脚意識と、華やかで憑しい音調とを刺戟して、和漢混淆文の発生を促した様な事情が、短歌の側でも見られるのである、宮廷・豪家の生活に、神事の「解忌《トシミ》」として行はれた直会《ナホラヒ》の肆宴《トヨノアカリ》以外にも、外国式の宴遊の儀が加へられて来た。踏歌の場合に限らず、かうした宴遊の酒間・水辺にも、即事の唱和《カケアヒ》があり、歌垣系統の勝負争ひもあつたらしい。男と女との間にも、さうした歌問答が行はれた痕は、万葉に明らかに見えてゐる。かう言ふ間に、相手なしに独吟する者が、次第に殖えて来た。かうした宴遊の場に於てくり返された労苦が積りつもつて、短歌成立前から兆《きざ》して居た創作動機を、故意に促す文学態度が確立した訣である。

     二 奈良朝の短歌

奈良朝に入つての短歌は、其価値の問題はともかく、かうした文学作品として扱ふ事の出来るものが多い。山部[#(ノ)]赤人の作物の中、晩年の作風らしいものゝ一群には、あまりに文学意識が露出し過ぎて居るものがある。自然の中から或技巧を感ぜしむる部分を截りとつて来て見せる。其に逢著する力は情熱でなく、自然を人間化する機智である。平静な生活に印象する四時の変化の、教養ある階級の普遍の趣味に叶ふ程度の現象であり、其に絡んだ人事である。
けれども真に「美」の意識を持つてゐた事の明らかに認められるのは、赤人の作品にはじまると言える。「美」の発見、――其は大した事である。だが、美の為に自然を改め、時としては美の為に、生活を偽つてさへ居る。赤人の個性を出す事が出来た時は、既に其以前に示して居た伝統の風姿や、気魄を失うてゐた。自然を人間化し、平凡な人間の感情を与へてゐる。荒《すさ》み易い野性を、宮廷生活から放逐する為には、彼の齎した「歌ごゝろ」は、非常に役に立つて居るであらう。優美を目標とする平安中期以後の宮廷生活が、彼によつて予告せられ、導かれもした。
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春の野に菫つみにと 来しわれぞ、野をなつかしみ、一夜寝にける
明日よりは春菜つまむと標《シ》めし野に、昨日も、今日も、雪はふりつゝ
百済野の萩が古枝《フルエ》に、春待つと 来居《キヰ》し鶯、鳴きにけむかも(万葉巻八)
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此等は、美は美であつても、趣味に触れると言ふ程度のものである。
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ぬばたまの夜のふけゆけば、楸《ヒサギ》生ふる清き川原に、千鳥しば鳴く
みよし野の象《キサ》山の際《マ》の木梢《コヌレ》には、こゝだも さわぐ鳥のこゑかも(万葉巻六)
[#ここで字下げ終わり]
等に見えた観照と、静かな律に捲きこんだ清純な気魄の力とは、何処へ行つたのか。前のは黒人の模倣であり、後のは人麻呂を慕つてはゐながら、独立した心境を拓いてゐる。文学態度に煩されて居ないのである。
人麻呂を手本にした「旅の歌」には、二人の間に区別のつかぬまで、よい影響を自由にとり入れてゐる。個性から出て、普遍の幽愁を誘ふものである。後期の優美歌になると、具通の美と官覚とは陳《の》べられてゐるけれど、個性の影は技巧の片隅に窺はれるばかりになつた。「百済野のはぎが古枝に、春待つと、来居《キヰ》し鶯、鳴きにけむかも」の歌は、純な拍子で統一してゐる様だ。併し「来居《キヰ》し鶯」の経験ではなくて、空想である事が、内容の側から不純な気分を醸し出してゐる。
かうした空想は、鳴き絶えぬ千鳥の声を夜牀に聴きながら、昼見た「楸《ヒサギ》生ふる清き川原」を瞑想した態度が、わるく変つて来たものである。此瞑想・沈思と言つた独坐深夜の幽情をはじめて表現したものは、高市[#(ノ)]黒人であつた。
奈良朝後半期には、長歌は既に古典化しきつてゐた。憶良の社会意識・生活呪咀などを創作した長篇なども、気魄の欠けた、律動の乏しいもので、情熱を失うてまで音脚を整へようとして、延言を頻りに用ゐるなど、態度のわるさが、すべてのよい「生活」を空な概念にしか感じさせない。反歌に移ると、生れ易《かは》つた様に自在で、多少の叙事式構想をも、律化したものが多い。
だが其短歌とても、ある点からは、先代文学にならはうとして居た。それは大伴家持等の古詞採訪に努めて居る様子、又家持自身創作に悩んで居る様などを見ても言へよう。詩形の生きて動いてゐる民謡側では、早くも又形式破壊の時を経て、再度|稍《やや》長目な自由詩になりはじめて居た。第一句は枕詞・地名・修飾辞の常場処になり勝ちで、形式的にも第二・第三句の繋りが固くなり、第一句は稍浮いた続き合ひになつて、音律を予覚しはじめてゐる。其方面に探りを入れかけた社会的傾向であつたと言ふ事も出来る。既に平安朝の「75」の基礎音脚は目ざめようとして居たことは実証出来るのだから、民謡は短歌の形から漸《やうや》く遠のいたと見てよい。そして流行に遅れた東国に於ては未だ盛んに民謡として短歌形式が行はれて居たのが、奈良盛時の状態であつたらう。其を記録したのが、万葉巻十四であるので、巻二十の東歌になると、ある部分の東びと[#「東びと」に傍線]には、創作を強ひられゝば、類型式ながら抒情表現の出来るやうな状態になつてゐたことを示して居るものであらう。
だから、東歌以外の民謡になると、新しくも大津[#(ノ)]宮以前に、大体、纏《まとま》りもし、既に崩れてもゐたと見える古い詞章の短歌成立以前の形と、そして奈良の都盛時或は末期に、短歌を離れて、前代の形に近づきながら、聯数は乏しく、音脚の制約の弛《ゆる》みはじめたらしいものとが、ごつた[#「ごつた」に傍点]になつてゐる。此後のものも、反歌を伴はぬ長篇式である。
其点から考へて見ると、短歌は或は民間では大した発達をしなかつたので、片哥や、旋頭歌や、短い長歌などゝ「組み歌」として現はれ始めてゐたのを、宮廷詩人らが他の発生動機などゝ併せて感受して、大歌の上で固成させたものと言ふ事も出来よう。片哥調は稍速めて謡へば、短歌の音数をも諷誦することが出来た。事実其証拠として、神武記の片哥問答に、一方は片哥、一方は短歌に近くなつて居るものが残つてゐる。
奈良の古詞憧憬は、儀礼・宴遊の詞章を神聖視した為で、本縁あるもの、豪家に伝来久しいもの、歴史背景を思はせるものなどの散佚したのを、採録して置かうとしたのに違ひない。前説はどうなりともよい。まづ、古詞の内容に限りがあつたものと見ねばならぬ――或は舞を伴ふものをめど[#「めど」に傍線]にしたのかと推せられぬでもない――。だが、一時唐化熱の為、古詞章を顧る者がなく、短歌を創作する者もなくなつて居たのが、支那文学の軟派書の影響を受けた人々が、国土・人情の違ひを超えて一致する民譚や、風習や、考へ方のあつたのに気がついた。さうして、此を支那の小説・伝奇の体に飜訳した。其試みが嵩じて、序・引・跋等を律語風の漢文に書いて、文中に古事記式の記録体又は、民譚或はほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]の芸謡などの長篇の抒情詩を篏《は》めこんで喜んだ遊戯態度が、進んで純文学動機を、創作の上に発生させたのである。一方宴遊の場合に詩文を相闘し、鑑賞し合ふのに、国語を以て出来ぬまだるこさと、教養不足とから、自然宴遊詩から宴遊歌に移つたのであらう。ともかくも、一時衰へた短歌は其衰へさせた人々によつて、復活せられて、文学遊戯の対象となり、宴遊を種とした小説や、更に進んでは、上官への哀訴を寄せた告白文などにさへなつた。貧窮問答などの構造は小説体である。
家持の賀歌・宴歌などに苦吟したのは、彼の才分の貧しい為とも考へたが、此事情から見れば、さうは言へなくなつた。氏[#(ノ)]上として諷誦の責任のあつた前代の奏寿其他の天子を対象とする呪言《ヨゴト》、氏人に宣《ノ》る神言《ノ
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