る。更に附け合ひの不即不離の状態である。かうした影響が、此集の歌人の「たけ」を生み、快く敏い語句の連環、其に加へて、意義の不透徹で、幽かに通ずる感じのある発想を導く様になつたとも言へよう。
畢竟あまりに、高踏的に構へ、唯美主義に溺れた為である。享楽態度を持ち続けて、益《ますます》深みへ這入つたのである。だが、他の方面から見ると、事実此頃、既に動いてゐた短歌の本質完成の時機の近づいて来た事の予想が、才人たちをして、其具体化に焦慮せしめたのであらう。
後鳥羽院は歴代天子の中で、第一流の文学の天分を示して入らつしやる。歌人としては、勿論、第一位に据ゑてよい方である。定家・家隆をはじめ新古今同人の誰よりも、或は優れて居られたかも知れぬ。唯、院|躬《みづか》ら其を知り過ぎて居られた様に見える。其あまりとして院の好みが、多く新古今に現れ過ぎた。此技巧は連歌から習得せられたものが多い様だ。
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見わたせば 山もと霞む水無瀬川。夕は秋と なにおもひけむ(新古今)
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此下句の附け方など、全く連歌である。姿の張りも、語句の利き方も、連歌系統の物が多い。
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思ひいづるをり焚く柴の夕煙。むせぶもうれし、忘れがたみに(新古今)
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此などの緊り方はどうも、連誹趣味である。此呪ふべき技巧に囚はれながらにも、残された作物には、文学として価値のある物が、尠くない。情熱と技巧と相具つた方だが、惜しい事には技巧が勝つた。情熱に任せて作られた様な物に、却つて佳作がある。
良経も院同様、時代の文学態度に呪はれた一人である。良経は豊かな天賦を持つて生れながら、其をまつ直には伸べないで了うた。彼の家集「秋篠月清集」は、拘泥なく歌うた痕が見えておもしろい。彼は、院ほど情熱家ではない。色々な試みもしてゐるが、此集は、わりあひに、創作動機の濃《こま》やかに動いた痕は見えない。可なり安易な気分で辞をつけて居る様な風にさへ見える。さうした時々優美に徹した歌を交へてゐる。「月清集」は謂はゞ、彼の習作集である。

     一〇 家集と撰集と

当時の都の歌風から少し遅れた千載集様の歌口を保つてゐたに限らず、実朝が、万葉調をある点まで正しくうつし出したことを土台として、当時の文壇を考へると、万葉集のとり扱ひ方に、時代的の変遷が見られるやうである。私の一つの見方からすると、短歌の上に万葉の影響の正面から来なかつた理由も訣る。万葉調は、古今風が短歌の正調ときめられてゐた時代には、ある軽みと、背優美味が感じられたかも知れない。近代で見ても、万葉の中、常に人に喜ばれ易かつたのは、戯咲歌或は其一類の即興歌などの、優美至上主義者にとつては、あまりに露骨な滑稽感を誘ふ実生活に近い作物であつた。真淵の様に万葉の巻一・二を本体とした人は別だが、単なる万葉調歌人は、人間の哀感ともつかず、あきらめともつかず、ちやかし気分ともつかず、楽天態度ともつかないものを、多く万葉調によせてゐる。其によつて、生活気分の他人と違うてゐることの明らかな、自覚を見せてゐる。
似た事は、平安末・鎌倉初め、古今調短歌固定時代にも言へよう。万葉の歌風・調子などが、連歌誹諧歌趣味を刺戟するものとして、此頃の感じ方から見られたのであらう。新興の連歌が、式目を言つて、文学論を持つと共に短歌に於ける古今の位置に、本拠として万葉集を据ゑることは、ありさうである。短歌作家と連歌作者とが、実際まだ専門化して岐れてゐなかつた頃である。短歌・連歌二つながら作り教へるやうな、隠者生活の人たちがあつて、さうした者から得た感化ではあるまいか。仙覚が頼経に近づいて行つたのも、さうした事情に考へることも出来ると思ふ。
かうした古今と万葉との対立の為に、当時の人は、万葉を読んでも其影響は、自覚的にはうけ容れなかつたもの、と見た方がよさゝうだ。実朝は、さうした間に、習得し、会得することもあつたであらう。又多少予期してもよからうと思はれる添刪を経て、あゝした歌をこしらへ出したものであらう。だから金塊集一部には、第一短歌、第二連歌から出た無心歌――まじめな――態度の作物とがまじつてゐるのである。さうして、其当時の目で見れば一見、無心派めいた作物が、実朝の値打ちを高めた万葉調の歌であるのだ。其にしても、彼のよい方の歌には万葉の調子の外に、讃歌調があり、極《ごく》、くだけた無心態度の自由さから、世相を詠んだものなどが出て、其が融合してゐるのである。単純に万葉一本の調子と言へないやうである。
習作集と謂へば、家隆の「壬二集《ジンジシフ》」、定家の「拾遺愚草《シフヰグサウ》」及び員外も同じく、下書き歌までも録した物であるらしい。新古今其他の勅撰集に出たもの以外の、此等の集にこみ[#「こみ」に傍点]になつてゐる作物を見ると、驚くばかり見劣りがする。彼等の日常の作物と百首歌や歌合せなどに文壇意識を交へての作物とは、非常に心の持ち方に開きのあつた事が訣る。一つは、召し歌や法楽歌や、歌合せが、文壇の生命・傾向を握り過ぎる様になつた為もある。歌の価値定めが、衆議制に拠る傾きは、平安末からのことで、明らかに歌合せの副産式の慣例であつた。
其延長として起つた新古今の選択法などは、明らかに衆議を土台に、其上、後鳥羽院の鑑賞を脇にしてゐる。此は、隠岐本新古今に、はつきり見えてゐる。其外当時の史書・日記類からも知れる。技巧と、冒険とで衆議制に優位を占めようとした、歌人仲間の気風が、見えすいてゐる。
衆議制を経て、喧伝せられたものを採用するのが、文壇意識の出た前期末頃からの傾向で、其が一面、他派の非難を防ぐ楯にもなつた訣だ。此が勅撰集に採られた作物と、習作集とで、値打ちの違つて見える大きな原因であつた。何にしても大体一般に認められた物は、ある点に於て、均整なり、的確なり、普遍なりを備へてゐるはずである。其時代の特殊な病的鑑賞は勿論あるとしても、まづは洗練せられた作物に違ひない。良経の作物の如きも、新古今に出た物は、ある一方の立ち場からは優美・豊満・閑雅・濶達など讃辞を尽しても足りないほど、貴族の風格のよさを極度に示してゐる。しかし生気は欠けてゐる。たけ[#「たけ」に傍線]はあつても、彼自身の生活を游離した、律動から出てゐる。雑然たる習作集には、性格や、境遇・時代などが不用意の間の自由な拍子に沁み出てゐる。家隆・定家の作物の如きも、習作集は極めて平凡で、選集には、頗《すこぶる》、特色を見せてゐるのは、そこに原因があるのであつた。
けれども、定家の作物は、後代程絶対価値が認められ、どんなものでも、自由に採られることになつた。八代集の後の選集が採つて来た定家の物には、伝襲的に描かれた面目と違つた、定家が出て来てゐる。此は技巧に悩んだ後、晩年になつて、平易で自在な境地に達したものとも言へる。が、さう見るよりも、自由な習作の中に現はれてゐた定家のよい姿なのであつた。
私は、此解説のむやみに長くなつたことを恥ぢながら、まだ書いてゐる。此過剰は、土岐さんを困らせ、出版元を苦笑ひさせるに、もう十分過ぎる。家隆と定家との比較を論じないで、一挙に新続古今・新葉辺に到達する幅飛びを試みなければならなくなつてゐる。併し其には都合よく、此本に択ばれた作者の時代が一飛びに跨げてよい様になつてゐる。
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末遠き若葉の芝生 うちなびき、雲雀鳴く野の 春の夕ぐれ(定家)
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などに、如何によい暗示を含んでゐたかを見ればよい。定家の子の為家は、庸物を以て目せられてゐるが、私は彼の歌にある風格の変化を見てゐる。此が其伝統を襲《つ》いだ二条流、其から更に連歌の平凡趣味と混淆して悪化して行つた後世の堂上風を導いたのである。彼の死後分裂した二条・冷泉・京極の三流の中、前二者の流派から出たすべての勅撰集及び、多くの家集は、今日までの私の鑑賞法からは、寧、劫火の降つて整理してくれることを望んでゐる。其程、個性と輪廓とのぼやけた物が多いのである。
土岐さんの此本の第一稿は、さうした連衆の作物の検査にまで手が及んでゐた筈である。そして其結果、此本の編者なるわが友をして「あゝ、呪はれた千数百年の短歌史よ」と叫ばせ、かあど[#「かあど」に傍線]箱を投げ出さしめた。其程、今後も出るはずの幾人の忠実な研究家・鑑賞者の差別・批判の能力を衰弱せしめるに十分な類型の堆積があるのである。
其結果、すつかり態度を替へて出来上つたのが此本で、実は、土岐さんにとつては第一次の大きなむだ[#「むだ」に傍点]修業の結果である。読者諸君は、其為に大いに救はれる事になつた訣である。人物の選択については、議論もあらうけれど、其には私も責任の片棒を落してゐる。敢へて此よき友がきの上に、更に反古張りの楯を竪てる所以である。

     一一 新葉集

南朝の新葉集の値ぶみは、昔から歴史の背景を勘定に入れ過ぎてかゝつてゐるところがある。だが、二条伝統の欽定――此集は準勅撰集――歌集では、まづ殆ど、最後の飛躍を示したものと言うてよからう。後醍醐院の気魄は、技巧を経れば、後鳥羽院の其に達するであらう。藤原師賢の叙事と抒情との調和――やゝ感傷に過ぎるが――した態度は、此集の後世から与へられた値うちづけの第一の目安らしいが、彼は確かに成功した作物を残した。此集になつて自叙伝歌集の態度が、明らかに復活して来たのであつた。其中、殊に個性の明らかなのは、何と言うても、後村上天皇であらう。表現の的確さは乏しいけれども、がら[#「がら」に傍点]の極めて大きな歌口である。
新葉集は、詞書きの殊に多く、長いものゝ沢山ある集である。其だけ、事実と即してゐるのである。若し二条系統の無刺戟に、円らかな調子が、今少し揺ぎ出し、せめて京極系統の客観態度が出て来てゐたら、もつと我々を感激させることが出来たであらうと思ふ。此集は全体として、南朝の抒情連作歌集と見てもよいであらう。
歌の師範家は、其最初から、公家武家の譏嫌《きげん》を見るのに敏かつた。定家になると一の檀那を失ふと同時に、第二の擁護者の軒に其影を現してゐた。主従関係を游離した芸道指南者の生活法が生れて来たのである。公子公女の文学顧問であつた女房の位置に、外部から入り替らうとして、隠者の一部なる入道歌人・居士学者が、其伝統を構へたのである。さうして代々、其擁護者の家に出入《でいり》して、それを高家に負うて、他の派に対抗した。定家以前は元より、以後も、六条家伝統の者や、隠者の歌人・学者があつたけれど、皆多く武家を檀那として、宮廷・公家を遠ざかつた。源光行等の系統が、其著しいものだ。さうさせたのは、定家伝統の師範家と其背景の力であつた。武家に出入りした隠者系統の者は、遂には連歌に傾くか、でなくば、事大的に宮廷の師範家の支配を受ける様になつた。さうして後者とても、次第に連歌誹諧歌の方に向つて、時好の中心を覓《もと》めて行つた。
歌道師範家と言うても、かうした気風であつて、職業化してしまつてゐるのである。大覚寺派は伝統的に二条家を擁護し、持明院統は之に対して京極家を眷顧した。都を出た南朝には二条の伝統はあつても、師範家は京に止つて、京極家を失うて後の持明院派を新しい大檀那と憑んでゐた。「新葉集」は、此に対する強い反感から生れたものと見ることが出来る。
短歌は南北朝に入つて、再、前途の光明を失うてしまうた。でも勅撰集は、師範の面目を維持する為の無意義の頻繁を続けた後、ふつつりと永久に断絶して了うた。二条良基等の愛著と隠者たちの努力とによつて、文学論と制約と歴史的根拠と高雅な形式を装ふ様になつた連歌は、此間に準勅撰集として、唯一の文学だつた短歌と肩を比《なら》べさうな機運を率《ひ》きつけてゐた。「菟玖波集」の編纂二十巻が此である。短歌は、次第に連歌化してゆく。連歌は次第に文学化して来る。かうした時勢に、伝習の惰力の振ひ落ちる時が迫つて来た。朝廷では、既に此期の初めに当つて、我が国信仰上の一大事たる伊勢斎宮の群行を廃止せられた
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