が、既に意識せられて居た抒情発想の烈しさを静め、普遍の誇張から、自己の観照に向はせて居た。其処《そこ》へ、支那宮廷の宴遊の方式と共に、厳《カザ》り立てた園池・帝徳頌讃の文辞が入りこんで来たのだ。文化生活の第一条件は、宮廷の儀礼・集会を、先進国風に改めることであるとした。
歌垣を飜訳して踏歌と称し、宮廷伝来の春のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の室踏みの歌舞をさへ、踏歌と改称する様になつた。朗詠の平安の都に栄えた理由として、踏歌《タウカ》の節《セチ》の「詠」に美辞を練つた事を第一に言ふべきである。而も踏歌の夜の詞曲は、唐化流行頂上の時勢にも、やはり大歌や、呪詞が交へ用ゐられた。
朗詠が、異様に、長目な音脚意識と、華やかで憑しい音調とを刺戟して、和漢混淆文の発生を促した様な事情が、短歌の側でも見られるのである、宮廷・豪家の生活に、神事の「解忌《トシミ》」として行はれた直会《ナホラヒ》の肆宴《トヨノアカリ》以外にも、外国式の宴遊の儀が加へられて来た。踏歌の場合に限らず、かうした宴遊の酒間・水辺にも、即事の唱和《カケアヒ》があり、歌垣系統の勝負争ひもあつたらしい。男と女との間にも、さうした歌問
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