時の、唯の神遊びの歌に過ぎないのを、いつかさういふ曲解が此歌の背景となつたのであらう。かういふ当時の歌人と許された人々の、神遊び歌を召されると言つた風が、宮廷詩人の俤《おもかげ》を見せて居るのである。
家持は平安の都に遷る前、長岡の都造営中に亡くなつた。晩年になつて一度、死後にも復《また》、疑獄に坐した。さうして平城天皇の御宇までは許《ユ》りなかつた。家持が壮《をとこ》盛りに、出入《でいり》した歌※[#「にんべん+舞」、第4水準2−3−4]所の内の後に(或は当時も)大歌所と言つた日本楽舞部の台本(伝来の大歌・采風理想から採集した民謡集)や、雑多な有名・無名の人の歌集や、家持自身大部分材料を蒐めて整理して置いた大伴集――仮りにかう名をつけておく。家持の近親・縁者・知人の贈答・創作歌の上に、自身でも集め、人にも依頼して蒐めた様々な詞章の集団――や、大体此三部類の資料が、万葉集の名で纏められようとしたのが、平城天皇の時代の事であつたらしい。此天子は奈良の古風な生活に愛著深く、情熱も強く、作品も(疑はしいが)残つて居りする方であつて、其孫王に行平・業平が出たのも納得出来る。
四 六
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