に崩れてもゐたと見える古い詞章の短歌成立以前の形と、そして奈良の都盛時或は末期に、短歌を離れて、前代の形に近づきながら、聯数は乏しく、音脚の制約の弛《ゆる》みはじめたらしいものとが、ごつた[#「ごつた」に傍点]になつてゐる。此後のものも、反歌を伴はぬ長篇式である。
其点から考へて見ると、短歌は或は民間では大した発達をしなかつたので、片哥や、旋頭歌や、短い長歌などゝ「組み歌」として現はれ始めてゐたのを、宮廷詩人らが他の発生動機などゝ併せて感受して、大歌の上で固成させたものと言ふ事も出来よう。片哥調は稍速めて謡へば、短歌の音数をも諷誦することが出来た。事実其証拠として、神武記の片哥問答に、一方は片哥、一方は短歌に近くなつて居るものが残つてゐる。
奈良の古詞憧憬は、儀礼・宴遊の詞章を神聖視した為で、本縁あるもの、豪家に伝来久しいもの、歴史背景を思はせるものなどの散佚したのを、採録して置かうとしたのに違ひない。前説はどうなりともよい。まづ、古詞の内容に限りがあつたものと見ねばならぬ――或は舞を伴ふものをめど[#「めど」に傍線]にしたのかと推せられぬでもない――。だが、一時唐化熱の為、古詞章を顧る者がなく、短歌を創作する者もなくなつて居たのが、支那文学の軟派書の影響を受けた人々が、国土・人情の違ひを超えて一致する民譚や、風習や、考へ方のあつたのに気がついた。さうして、此を支那の小説・伝奇の体に飜訳した。其試みが嵩じて、序・引・跋等を律語風の漢文に書いて、文中に古事記式の記録体又は、民譚或はほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]の芸謡などの長篇の抒情詩を篏《は》めこんで喜んだ遊戯態度が、進んで純文学動機を、創作の上に発生させたのである。一方宴遊の場合に詩文を相闘し、鑑賞し合ふのに、国語を以て出来ぬまだるこさと、教養不足とから、自然宴遊詩から宴遊歌に移つたのであらう。ともかくも、一時衰へた短歌は其衰へさせた人々によつて、復活せられて、文学遊戯の対象となり、宴遊を種とした小説や、更に進んでは、上官への哀訴を寄せた告白文などにさへなつた。貧窮問答などの構造は小説体である。
家持の賀歌・宴歌などに苦吟したのは、彼の才分の貧しい為とも考へたが、此事情から見れば、さうは言へなくなつた。氏[#(ノ)]上として諷誦の責任のあつた前代の奏寿其他の天子を対象とする呪言《ヨゴト》、氏人に宣《ノ》る神言《ノ
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