に区別のつかぬまで、よい影響を自由にとり入れてゐる。個性から出て、普遍の幽愁を誘ふものである。後期の優美歌になると、具通の美と官覚とは陳《の》べられてゐるけれど、個性の影は技巧の片隅に窺はれるばかりになつた。「百済野のはぎが古枝に、春待つと、来居《キヰ》し鶯、鳴きにけむかも」の歌は、純な拍子で統一してゐる様だ。併し「来居《キヰ》し鶯」の経験ではなくて、空想である事が、内容の側から不純な気分を醸し出してゐる。
かうした空想は、鳴き絶えぬ千鳥の声を夜牀に聴きながら、昼見た「楸《ヒサギ》生ふる清き川原」を瞑想した態度が、わるく変つて来たものである。此瞑想・沈思と言つた独坐深夜の幽情をはじめて表現したものは、高市[#(ノ)]黒人であつた。
奈良朝後半期には、長歌は既に古典化しきつてゐた。憶良の社会意識・生活呪咀などを創作した長篇なども、気魄の欠けた、律動の乏しいもので、情熱を失うてまで音脚を整へようとして、延言を頻りに用ゐるなど、態度のわるさが、すべてのよい「生活」を空な概念にしか感じさせない。反歌に移ると、生れ易《かは》つた様に自在で、多少の叙事式構想をも、律化したものが多い。
だが其短歌とても、ある点からは、先代文学にならはうとして居た。それは大伴家持等の古詞採訪に努めて居る様子、又家持自身創作に悩んで居る様などを見ても言へよう。詩形の生きて動いてゐる民謡側では、早くも又形式破壊の時を経て、再度|稍《やや》長目な自由詩になりはじめて居た。第一句は枕詞・地名・修飾辞の常場処になり勝ちで、形式的にも第二・第三句の繋りが固くなり、第一句は稍浮いた続き合ひになつて、音律を予覚しはじめてゐる。其方面に探りを入れかけた社会的傾向であつたと言ふ事も出来る。既に平安朝の「75」の基礎音脚は目ざめようとして居たことは実証出来るのだから、民謡は短歌の形から漸《やうや》く遠のいたと見てよい。そして流行に遅れた東国に於ては未だ盛んに民謡として短歌形式が行はれて居たのが、奈良盛時の状態であつたらう。其を記録したのが、万葉巻十四であるので、巻二十の東歌になると、ある部分の東びと[#「東びと」に傍線]には、創作を強ひられゝば、類型式ながら抒情表現の出来るやうな状態になつてゐたことを示して居るものであらう。
だから、東歌以外の民謡になると、新しくも大津[#(ノ)]宮以前に、大体、纏《まとま》りもし、既
前へ
次へ
全32ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング