。神と巫女との間に発生した歌の末が、茲に退転するのは、理を超越して、何だか、当然の帰結らしい気がする。
此時代に入る少し前、持明院派では、京極為兼を迎へ用ゐられた。為兼は、藤原資朝が建武中興の企ての中心人物となる事に、大きな刺戟を与へたほどの――徒然草、為兼配流の条――人と伝へられる。時代変改の予感者であつたであらう。彼は、民間の隠者歌の影響を受けたと共に、万葉集の時代的の理会としては最よい程度に達してゐた様である。其上、新古今の早く忘れて過ぎた、真のはなやかで、正確な写生態度を会得してゐた。其を明らかに意識したのは、この頃の連歌の叙景態度からも来てゐよう。彼は其に止らないで、行きつまつた歌の題材は、歌風はどうして展開して行つたものであらうか、といふ悶えを、常に抱いて居たらしく思はれる。
彼は、先へ/\と進んで行つた。彼は更に言語の象徴性を極端に伸し、描写性を振り捨てようとする試みから、新古今歌人に成功せなかつた幽玄体を完成しようとした。彼の此企ての内的に進んだ処はよかつた。けれども、結局さうした企ての帰著が、芸術の破壊であることを知らなかつた。けれども、江戸の俳人の象徴派が試みたことは、彼が鎌倉の末に手をつけて、失敗の轍《てつ》を示して置いたのであつた。彼は、自分の後進者には、この方面には進ませようとせなかつたらしい。彼の撰《ツク》つた選集の「玉葉」及び、其系統の「風雅」の二勅撰集は、毘沙門堂――彼の派の別名――風のよい方面を示してゐる。
其頃には、よい教導者を戴いて出来たよい雰囲気の上に、優れた多くの宮廷歌人が出た。其最注意してよいのは、男性では伏見院、女性では永福門院である。私は玉葉・風雅二集の為に、今まで書いた文章位の分量の評論を作つて見ても飽くまい。けれども今は、思ひ切らねばならぬ。だが、土岐さんの此本が機縁になつて、歌の邪道・地獄の歌とまで、二条派及び其末流並びに伝説を信じて研究を怠つた耳食の学者たちから、久しく呪はれてゐた玉葉・風雅が、正しい鑑賞の下に置かれる様になつたことを欣ばずに居られない。此為に此文章は、有頂天の嬉しさを持ちつゞけて、くど/\書かれたのであつた。
今一つ、言ひ添へる未練が許されるなら、明敏な読者には、既に悟られた筈の事を、更に明らかにして置きたい。我々の時代まで考へて来た所の短歌の本質と言ふものは、実は玉葉・風雅に、完成して居たの
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