く、長いものゝ沢山ある集である。其だけ、事実と即してゐるのである。若し二条系統の無刺戟に、円らかな調子が、今少し揺ぎ出し、せめて京極系統の客観態度が出て来てゐたら、もつと我々を感激させることが出来たであらうと思ふ。此集は全体として、南朝の抒情連作歌集と見てもよいであらう。
歌の師範家は、其最初から、公家武家の譏嫌《きげん》を見るのに敏かつた。定家になると一の檀那を失ふと同時に、第二の擁護者の軒に其影を現してゐた。主従関係を游離した芸道指南者の生活法が生れて来たのである。公子公女の文学顧問であつた女房の位置に、外部から入り替らうとして、隠者の一部なる入道歌人・居士学者が、其伝統を構へたのである。さうして代々、其擁護者の家に出入《でいり》して、それを高家に負うて、他の派に対抗した。定家以前は元より、以後も、六条家伝統の者や、隠者の歌人・学者があつたけれど、皆多く武家を檀那として、宮廷・公家を遠ざかつた。源光行等の系統が、其著しいものだ。さうさせたのは、定家伝統の師範家と其背景の力であつた。武家に出入りした隠者系統の者は、遂には連歌に傾くか、でなくば、事大的に宮廷の師範家の支配を受ける様になつた。さうして後者とても、次第に連歌誹諧歌の方に向つて、時好の中心を覓《もと》めて行つた。
歌道師範家と言うても、かうした気風であつて、職業化してしまつてゐるのである。大覚寺派は伝統的に二条家を擁護し、持明院統は之に対して京極家を眷顧した。都を出た南朝には二条の伝統はあつても、師範家は京に止つて、京極家を失うて後の持明院派を新しい大檀那と憑んでゐた。「新葉集」は、此に対する強い反感から生れたものと見ることが出来る。
短歌は南北朝に入つて、再、前途の光明を失うてしまうた。でも勅撰集は、師範の面目を維持する為の無意義の頻繁を続けた後、ふつつりと永久に断絶して了うた。二条良基等の愛著と隠者たちの努力とによつて、文学論と制約と歴史的根拠と高雅な形式を装ふ様になつた連歌は、此間に準勅撰集として、唯一の文学だつた短歌と肩を比《なら》べさうな機運を率《ひ》きつけてゐた。「菟玖波集」の編纂二十巻が此である。短歌は、次第に連歌化してゆく。連歌は次第に文学化して来る。かうした時勢に、伝習の惰力の振ひ落ちる時が迫つて来た。朝廷では、既に此期の初めに当つて、我が国信仰上の一大事たる伊勢斎宮の群行を廃止せられた
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