更に、短歌分化の根本律たる末句反乱の癖の再現した為に、最後に添加せられた7の囃し乱《ヲサ》めの力がはたらきかけて「575・777」と言つた諷誦様式を立てさせた。而も最後の一句は、百の九十九まで内容の展開に関係のない類音のくり返しであつた。
歌が記録せられる様になるに連れて、此即興的な反覆表現はきり棄てられて、完全に「575・77」の音脚が感ぜられる様になつて来る。かうなつて来ると、声楽の上では、旋頭歌と短歌との区劃が明らかでなくなる。さうして、尚行はれてゐる短歌の古い諷誦法「57・5・77」型の口拍子が、却《かへ》つて旋頭歌の上に移つて来て「57・7・57・7」又は「57・7・577」或は「57・75・77」となり、遂には「5・77・577」と言つた句法まで出来て行つた。
短歌が、声楽から解放せられて、創作物となり、文学意識を展《ひら》いて行つたのは、亦《また》声楽のお蔭であつた。私は此分離の原因の表面に出たものを「宴遊即事」にあると見てゐる。新室《ニヒムロ》の宴《ウタゲ》及び、旅にあつての仮廬祝《カリホホ》ぎから出て来た「矚目吟詠」は、次第に叙景詩を分化して来た。列座具通の幽愁の諷誦が、既に意識せられて居た抒情発想の烈しさを静め、普遍の誇張から、自己の観照に向はせて居た。其処《そこ》へ、支那宮廷の宴遊の方式と共に、厳《カザ》り立てた園池・帝徳頌讃の文辞が入りこんで来たのだ。文化生活の第一条件は、宮廷の儀礼・集会を、先進国風に改めることであるとした。
歌垣を飜訳して踏歌と称し、宮廷伝来の春のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の室踏みの歌舞をさへ、踏歌と改称する様になつた。朗詠の平安の都に栄えた理由として、踏歌《タウカ》の節《セチ》の「詠」に美辞を練つた事を第一に言ふべきである。而も踏歌の夜の詞曲は、唐化流行頂上の時勢にも、やはり大歌や、呪詞が交へ用ゐられた。
朗詠が、異様に、長目な音脚意識と、華やかで憑しい音調とを刺戟して、和漢混淆文の発生を促した様な事情が、短歌の側でも見られるのである、宮廷・豪家の生活に、神事の「解忌《トシミ》」として行はれた直会《ナホラヒ》の肆宴《トヨノアカリ》以外にも、外国式の宴遊の儀が加へられて来た。踏歌の場合に限らず、かうした宴遊の酒間・水辺にも、即事の唱和《カケアヒ》があり、歌垣系統の勝負争ひもあつたらしい。男と女との間にも、さうした歌問
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