聯想を持たれてゐる。能楽の上の番組を、模倣したと考へることである。だが其は、後の合理解で、必、語原は別だと思ふ。
端的に言ふと、組唄の踊りと言ふ事だと考へてゐる。室町以後江戸の初期へかけて、中世以前、上流の専有であつた組歌が、民間に盛んに行はれる様になり、古い琴歌《キンカ》は、いつしか、新しい組唄を生じ、三味線にも組唄がかけられてゐた。此一続きの組唄の謡はれてゐる間に、其気分表現を主とする踊りが、はやり出したのである。
組唄が、古来箏曲家の正式、長唄は、検校家の本格芸と考へられる様になつて、江戸に入る。三味線も、利用繁くなる程、格が低く見られて行つたが、渡来の始めは、検校家の琴の脇として、品高く用ゐられた、はいから[#「はいから」に傍線]な異国楽器であつた。異国楽譜に、名高い民間の歌謡を合せる試みは、平安初期から、盛んに行はれた事で、楽器の音色と、曲譜とから来る、耳馴れた唄の情調の変化を嬉しむ心は、今も変りはない。だから三味線には、琴の神楽風を行く古典的なのと違つて、催馬楽式に、民間の小唄を合せた。そして、琴の組唄組織を写して、小唄組を作つたのである。
茲に一つ、考へねばならぬ事は、江
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