方の きのふの雨に こりにけんかも(巻四)
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此歌は、いつも雨つゝみをしてゐるあなたは、昨日の雨で外出が出来ずに、懲りた事でせう、といふ意だとされて居るが、実は男、女の禁欲生活をして居る意味の罪である。
猶、此事を考へるのに、手がゝりとなるのは、景行記に見える次の話である。景行天皇が、美濃の国造の祖神、大根王の娘、兄媛・弟媛を、皇子大碓命をして召し上げさせられた時、大碓命は、媛二人を我ものとしてしまひ、他の娘を奉つた。そこで、天子様はお憤りなされて「つねに、長眼《ナガメ》を経《ヘ》しめ、又|婚《メ》しもせず、惚《モノオモ》はしめたまひき」とある。普通には、此ながめ[#「ながめ」に傍線]のめ[#「め」に傍線]は男女相合ふ機会の事を言ふから、其間を長く経る事をば、長目を経るといふのだとしてゐる。だが、此ながめ[#「ながめ」に傍線]は、霖禁に関係がありさうだ。
さて、此ながめ[#「ながめ」に傍線]・ながむ[#「ながむ」に傍線]といふ言葉の意味は、平安朝頃になると、「ぼんやりして何も思はず」といふ位な風になつて居る。もう一つ伊勢物語の例を挙げると、
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起きもせず、寝もせで夜をあかしては、春のものとて、ながめくらしつ
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此等のながめ[#「ながめ」に傍線]は長雨で、長雨のふりつゞ頃の、物忌みから出た言葉であらうと思はれる。長雨の物忌み、即、雨のふりつゞくころの、慎しみから出た言葉であらうと思ふ。
かうして考へて来ると、天つ罪は、天上の罪ではない。本義は、五月の田植ゑ時の慎しみ、即、雨つゝみ[#「雨つゝみ」に傍線](雨障・霖禁)である。今でも、処によると、田植ゑ時に夫婦共寝せぬ地方がある。田植ゑの頃は、一年中で一番、長雨のふりつゞく時期であつて、此間は、村の男女は、すつかりと神事関係になつて了うて、男は神、女は巫女となるのである。
四月の頃、女は山に籠つて成女戒を受け、躑躅の花をかざして下りて来て、今年の早処女をつとめる。此は、田植ゑの神事に与る巫女の資格で、田植ゑの終るまで処女の生活をする。此処で考ふべきは、処女生活といふ事であるが、此には三通りあつた。一つはほんとうの処女、此はまだ男を持つた事のない女(一)。次に或期間のみ男に逢はぬ女、即、或期間だけ処女生活をする女(二)。次は床|退《サ》りをした女、即、或年齢に達すると、女は夫を去つて、処女生活に入る信仰があつたが、さういふ様な女(三)。此床退りの女は、其以後の生活は、神に仕へるのである。後世のお室様といふのは、此の事をいふのだ。平安朝には床退りした女は、尼となつて仏事に入り、処女生活をしたのである。
さて女は、五月の田植ゑの済むまでは、男を近づけない。男の方でも女に触れない。此期間は男女共に、袴や裳に標を附けて、会ふ事をしない。此間の事をながめをふる[#「ながめをふる」に傍線]といふのである。一軒の家に同居して居ても、会はない。前の、景行天皇の話の、媛をして、長眼を経しめたまふといふのは、媛にお顔を見せながら、霖雨中放つて置いて、性欲的の苦しみをなさしめたといふ事である。其が固定してながめ[#「ながめ」に傍線]となり、性欲的な憂鬱からして、ぼんやりして居る事を表す語になつたのである。
平安朝になつてからのながめ[#「ながめ」に傍線]は、美しい意味に替つて来て了うたので、根本は、性欲的の憂鬱の状態を言ひ表す語である。
五月の物忌みが雨つゝみ[#「雨つゝみ」に傍線]で、此が天つ罪となるには、すさのをの[#「すさのをの」に傍線]命が元来、田の神で、其犯された罪を一処にして了うたのだ。すさのをの[#「すさのをの」に傍線]命は、仏教では牛頭天王にされて居る。悪い方の田の神である。其悪い方の田の神を祀つて、いたづらせぬ様に守つてもらふ所から出た、信仰である。悪い神も祀られると、よい事をするといふ考へ方である。さて、此すさのをの[#「すさのをの」に傍線]命に対する慎しみが、天つ罪である。其がちようど雨の時の慎しみと、同じ時期に当つて居る。
神は普通には、夜出現するが、田植ゑ時には、昼間出て来る。夏祭り神事の中心は、昼間行はれる。昼間、田を植ゑて居ると、神が来て田を囃してくれる。後世では、田植ゑの前後にのみ囃しをするが、本来は植ゑて居る最中に、囃すのである。後には、囃す田も固定して、はやし田[#「はやし田」に傍線]といふ名も出て来て居る。又、田植ゑの初めに囃して、其で、後やらぬ様になつた所もある。此囃しに来る神は、仮装して出て来る。此仮装がやがて、田舞ひを生む。そして田舞ひが、猿楽と合体して、田楽が出来る。男女共に顔を隠して、神の形になつて居る。五月の田植ゑの時は、昼は勿論、夜も神が廻つて歩いて居るから、男女相逢ふことは出来ぬ。だ
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