るので、卯の日には、其行事が見えないが、お湯へお這入りになる事は、屡行はれる。本来は、此湯へ這入つて居られる時に於て、一方では、御殿のほかひ[#「ほかひ」に傍線]が行はれて居るのである。大嘗宮は、紫宸殿の前で、南に建てられる。東には廻立殿が造られる。そして、紫宸殿から廻立殿への出御は、廊下を渡つてなされる。
廻立殿といふのは、悠紀・主基両殿へお出でになる御用意の為に、設けられた御殿で、いはゞ祭事の為に、お籠りになる御殿である。
此御殿の名称が、何の故に廻立殿とよばれるか、其は訣らぬ。そして、此廻立殿の御儀式は、外部からは、一切訣らぬものにされて居る。廻立殿は、東西五間、南北三間の御殿である。西側三間を、天子様の居られる所とし、東側二間は、竹の簀子にしてある。此所が、茶の湯所となつて居るが、なにか、忌斎の場所らしい。天子様は、大嘗祭の卯の日の儀式にも、始終、この廻立殿へ出御なされる。そして、御湯をお使ひなされる。此処で、此お湯のお話をする事にする。

     一三

湯は斎《ユ》に通ずる音で、古く湯といつたのが、果して、今の吾々の云ふ所の温いものかどうか、一寸疑問である。斎川水といふ事もあつて、此は、天子様の御身体をお浄めになる水で、用水でも、池でも、泉でも、何でも左様にいふのである。だから、斎川といふのは、御禊に使ふ水をいふ事である。此斎川水が段々と変化して、終には湯にまでなつた、と見るべきである。
日本の古い信仰では、初春には、温い水が遠い国から、此国土へ湧き流れて来る、と信じて居つた。そして事実、日本には温泉が多い。こんな事からして、いづる湯[#「いづる湯」に傍線]についても、神秘な考へを持つて居つた。温泉は、常世の国から、地下を通つて来た温い水で、禊ぎには理想的なもので、そこで、斎川水《ユカハミヅ》として尊重されたものである。又さうでなくとも、斎川水は温いと信じて居つた。こんな風な信仰から、禊ぎには、温い水を用ゐる様になつた。だから古い書物に、湯とあつても、其は、今日の吾々の考へて居る温湯である、と直ぐに、極めつける事は出来ぬ。
藤原の宮から奈良・飛鳥の宮にかけては、天子様が時々、湯に行かれたり、温泉を求められたりした事が、記・紀・万葉集などには、非常に多く出てゐる。此温泉へ旅行せられるのは、今日の吾々の様に、たゞの遊山や避暑ではなく、御禊の信仰の考へから見ねばならぬ。とにかく、以上いうた様な信仰から、宮廷の斎川水の考へは、温い湯と変つたので、又其を直にゆ[#「ゆ」に傍線]と申す事になつた。此湯に這入られると、尊い方となられるのである。日本にある処の、天の羽衣伝説は、此禊ぎと深い関係を持つて居る話である。天上から降つた処女が、天の羽衣を脱いで、湯に這入つたら、人間になつてしまつた。又、天の羽衣を奪ふと、人間になる。かういふ筋の話は沢山あるが、此天女の羽衣の話の源をなすものは、丹波の天の真名井《マナヰ》の、七人の天つ処女の伝説である。
天の真名井の話で見ると、七人の天女の中で、羽衣を奪はれた一人の娘が、後には、伊勢の外宮の豊受大神となられた。此七人の天つ処女の縁故で、丹波からは、八処女が、宮廷へも、伊勢へも出て来て、禊ぎの事に奉仕する。不思議なのは、禊ぎに奉仕する処女が、其尊い方の后となられる、習慣の見えて居ることである。だから、或時期の間は、丹波氏の娘が、宮廷へ仕へて、后となつて居る。さうでなくとも、丹波氏の娘の形式をとつて、后となつて居る。
先に申した所の、天の羽衣を脱いだから人間になつて了うた、といふのは誤りで、脱げば、物忌みから解放されたのだから、神人とならねばならぬ筈だ。御禊をせられた尊い方は神であり、羽衣をぬがれた処女は、或任務を果たす為の、巫女である。巫女は神に仕へる、最高な女である。
此処で、話をずつと、後世へ引き下げて言うて見る。汚い話のやうであるが、今より二百年前までは、御湯へ這入る時に、湯具・褌などは、締めたまゝ這入つた。ほんとうは、湯に行く時は、褌を二筋持つて行つた。一筋は締めて居り、一筋は這入る時に締め換へて這入る為の用意である。何の為に、締め換へて這入るのか。此は、陰所を見せては恥づかしい、といふ考へからでは、決してない。
元来、褌即、下紐は、物忌みの為のものである。民間では、褌をするのは、一人前の男になつた時のしるし[#「しるし」に傍点]だと言はれて居る。十五歳になると、褌を締めて、若衆宿へ仲間入りの挨拶に行く。此行事の事を、袴着というて居る。此が、女の方だと、裳着といふ。正式には、男女共に、二回ある筈だ。
第一回は、村の子どもとなる為で、五六歳頃にやる。平安朝頃の貴族たちの仲間でも、やかましく行はれた。源氏物語など見ても、書いてある。次のは、をとこ[#「をとこ」に傍線]・をとめ[#「をとめ
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