は、北野の斎場では、標の山として立てられる。此は平安朝にはへうのやま[#「へうのやま」に傍線]と発音されて居るが、其は誤つて音読したからである。本来はしめのやま[#「しめのやま」に傍線]で、神のしめる標《シルシ》の山といふ事である。神様を此標の山に乗せて、北野から引いて来て、悠紀・主基の御宮にお据ゑ申す。標の山は神の目じるしとしてのものである。だが後には此標の山は、どうなつて了うたかわからぬ。
併し、此標の山の形のものは、近世まで、祭りの時は引き出す。屋台とか、山車《ダシ》とか、お船とかいふ様なものは、此標の山の名残りの形と見る事が出来る。松本の青山様も、此様式のものであらう。
先に引いた垂仁記のは、古い形のものであらう。此が常に、尊い神や、人をお迎へする時に造られたのであつて、大嘗祭にも注意せられたのである。後世、祭りとして、一番「標の山」が用ゐられたのは、夏祭りの標本なる、祇園の祭りである。祇園祭りといふのは、ほんとうは、田植ゑのさなぶり[#「さなぶり」に傍線]の祭りで、田の神に振舞ひをする祭りであつて、本来は農村の祭りであつた。其が、だん/\と農村から出て、道教の考へと一処になり、怨霊の祟りの考へと一つになつて、御霊の信仰が強くなつた。京都などでは、殊に此考へが盛んになつて、五个処に御霊様を祀つて、御霊会を行ひ、神を慰め、悪事をやめて貰つたのである。こんな風で、後には、悪い事を防ぐ神と信じられて来て、其が仏教と習合して、牛頭天王様であると考へて来たのである。そして、其牛頭天王の垂跡が、すさのをの[#「すさのをの」に傍線]命だといふ様になつた。すさのをの[#「すさのをの」に傍線]命は、農業の神だから、直に一処にして了うたのだ。此時も「山」を出し、其山を中心として、祭りを行ふのである。こんな風で、後には、夏祭りには、鉾や山が行はれるやうになつた。
次に天子様の御禊の話をして見る。

     一二

大嘗祭の用意として、十一月は全体、物忌みの月である。これを散斎と言うて居る。其中で、大嘗祭の前二日と、其当日とをば、殊に、致斎と呼ぶ。散斎は割合に自由な物忌みといふ事で、穢れた事や、神事上の絆れた問題には与らない、といふ程の意味である。致斎の方は、昔は絶対な物忌みであつたらうが、令の規定以来、少しく軽くなり、十月の末日と定められて、山城の京都では、加茂川の某地点で、御
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