のである。
さて、大嘗宮は、柴垣の中に、悠紀・主基の二殿を拵へてあつて、南北に門がある。天子様は、まづ悠紀殿へ出御なされて、其所の式をすませ、次に主基殿へお出でなされる。古来の習慣から見ると、悠紀殿が主で、主基殿は第二義の様である。すき[#「すき」に傍線]は、次[#「次」に傍線]といふ意だと言はれて居る。悠紀のゆ[#「ゆ」に傍線]は斎む[#「斎む」に傍線]・いむ[#「いむ」に傍線]などの意のゆ[#「ゆ」に傍線]で、き[#「き」に傍線]は何か訣らぬ。そして、ゆき[#「ゆき」に傍線]・すき[#「すき」に傍線]となぜ二つこしらへるのか、其も訣らぬ。だが、大体に於て、推定は出来る。
日本全国を二つに分けて、代表者として、二国を撰定し、其二国から、大嘗祭に必要な品物をすべて、持つて来させて、この二殿で、天子様が御祭りをなされる。昔は或は、宮廷の領分の国の数だけ、悠紀・主基に相当する御殿を建てたものかも知れぬ。そして、天子様が大きなお祭りをせられたのかも知れぬ。そして、此御祭りの中に、いろ/\の信仰行事が取り込まれて来て、天子様の復活祭をも行はれる様になつたのであらうと思ふ。
天子様は、悠紀・主基の二殿の中に、御蓐を設けられるのは、何時の頃からか、よく考へて見ると、何も左様な褥の設けられねばならぬ、といふ理由はない。悠紀殿・主基殿の二个所で、復活なされる必要はない。大嘗宮の外に、復活式をせられる場所がなければならぬ。悠紀殿・主基殿へ出御なさるのは、新嘗を御うけなされる為であらう。
大嘗祭の時には、廻立殿をお建てになるが、恐らく此が、天子様の御物忌みの為の御殿ではなかつたか、と考へられる。此宮でなされる復活の行事が、何時の間にか、悠紀・主基の両殿の方へも移つて行つて、幾度も此復活の式をなさる様になつたのであらう。次に、風俗と語部の話をして見たい。

     一一

昔は、大嘗祭の時には、ゆき[#「ゆき」に傍線]・すき[#「すき」に傍線]二国からして、風俗歌が奉られた。平安朝の頃は、其国の古歌を用ゐて居た。後には、其国から出た、古い歌人の歌を用ゐる事になつた。後には、都の歌人が代表して歌を作る様になつた。
此風俗歌は、短歌の形式であつて、国風《クニフリ》の歌をいふのである。此国ふりの歌は、其国の寿詞に等しい内容と見てよろしい。国ふりのふり[#「ふり」に傍線]は、たまふり[#「たま
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