すめみまの」に傍線]命の御身体に、天子霊が完全に這入つてから、群臣が寿言を申すのだ。寿言を申すのは即、魂を天子様に献上する意味である。群臣等は、自分の魂の根源を、天子様に差し上げて了ふのだ。此程、完全無欠な服従の誓ひは、日本には無い。寿言を申し上げると、其語について、魂は天子様の御身に附くのである。
天子様は倭を治めるには、倭の魂を御身体に、お附けにならなければならない。譬へば、にぎはやひの[#「にぎはやひの」に傍線]命が、ながすね[#「ながすね」に傍線]彦の方に居た間は、神武天皇は戦にお負けなされた。処が、此にぎはやひの[#「にぎはやひの」に傍線]命が、ながすね[#「ながすね」に傍線]彦を放れて、神武天皇についたので、長髓彦はけもなく[#「けもなく」に傍点]負けた。此話の中のにぎはやひの[#「にぎはやひの」に傍線]命は、即、倭の魂である。此魂を身に附けたものが、倭を治める資格を得た事になる。
此大和の魂を取扱つたのは、物部氏である。もの[#「もの」に傍線]とは、魂といふ事で、平安朝になると、幽霊だの鬼だのとされて居る。万葉集には、鬼の字を、もの[#「もの」に傍線]といふ語にあてゝ居る。物部氏は、天子様の御身体に、此倭を治める魂を、附着せしむる行事をした。此が、猿女鎮魂以外に、石《イソ》[#(ノ)]上《カミ》の鎮魂がある所以である。
此処で、猿女の鎮魂式を考へて見る。さうすると、日本人の生死観がよく訣る。元来、日本の古い信仰では、生と死との区別は、不明瞭なものであつた。人が死んでも、魂をよび戻せば生きかへる、と思うてゐた。そして、どうしても魂がかへらぬとあきらめるまでは、略《ほぼ》一年間かゝつた。此一年の間は、生死不明の時期で、古い文献を見ると、殯宮《モガリノミヤ》、又はあらきの[#「あらきの」に傍線]宮と言うて居るが、此は此魂を附着せしめようとして居る間の、信仰行事を斥していふのである。御陵を造つて居る間が殯宮だ、といふ考へは、後の考へ方で、支那の考へが這入つて来て居る。
殯宮の間に於ける天子様を、大行天皇と申上げて居る。此も亦、支那流の考へが混つて居る。此期間中は、生死不明であると共に、日つぎの[#「日つぎの」に傍線]皇子が、裳(襲)に籠つて居られる期間である。
猿女鎮魂の起原ともいふべきは、天[#(ノ)]岩戸の一条の話である。天照大神は、天[#(ノ)]岩戸に籠
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