相聞の発達
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)木梨軽《キナシカル》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)弓矢|囲《カク》みて

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた

 [#…]:返り点
 (例)中皇命《ナカツスメラミコト》使[#二]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)木梨軽《キナシカル》[#(ノ)]太子

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)はつ[#「はつ」に傍点]/\
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     一

木梨軽《キナシカル》[#(ノ)]太子の古い情史風のばらっど[#「ばらっど」に傍線]の外に、新しい時代に宣伝せられたと思はれる悲しい恋語りが、やはり巡遊伶人の口から世間へちらばり、其が輯録せられて万葉にある。一つは宅守《ヤカモリ》相聞である。今一つは乙麻呂《オトマロ》流離の連作である。時代が新しいから真の創作であらう。そして不遇な男女が、哀別の涙をさへ、人に憚つて叫び上げたものゝ様に思はれ、我々をも動す強い感激が含まれて居る様にも見える。唯見えるのである。
今日の我々は、背景を知らずに見るから、ばらっど[#「ばらっど」に傍線]としての誇張と、純粋な劇的の構想にうつかりひつかゝつて了ふのである。時代が創作時代・抒情詩時代に入つてゐるのだから、都近くから出たばらっど[#「ばらっど」に傍線]が、如何にも修練と昂奮とで、技巧を突破した作物らしい色を見せる様になつてゐる。殊に中臣宅守に係つた巻第十五の主要部になつた連作の唱和などは、かう言ふ自身すら、疑はしく思ふ程の傑作揃ひである。併し、どうして其等の相聞歌が散逸せなかつたか、即興以外には纔《わづ》かに宴遊の余興に於て、だが、はつ[#「はつ」に傍点]/\好事の漢風移植者たる大伴[#(ノ)]旅人・家持一味の人々の文芸意識を持つての遊戯が見える位に過ぎない時代に、悲しみを叙して、繰りかへし贈答することがあつたとは思はれぬ。
畢竟《ひつきやう》、軽[#(ノ)]太子の哀れな物語や、大国主の円満な恋や、仁徳天皇のねぢれた情史を謡ひ歩いて、万葉まで其形を残した性欲生活の驚異を欲した村の人々の心が、更に変態で、切実なものを要求した為に、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の謡ふ「物語」のくづれが、自然に変化して、創作気分の満ちたものを生み出すことになつたのである。だが、其変化は自然であつたらうと言ふことは忘れてはならぬ。特殊な事情は、固有名詞やほんの僅かばかり文句を変更する位のことであつたであらう。ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]自身すら古物語の改作とは心づかずに事情のあうて行くまゝに、段々謡ひ矯《タ》め、口拍子に乗せ易《か》へて行つたに違ひない。
石上《イソノカミ》乙麻呂は、奈良の盛りの天平十一年の春、久米[#(ノ)]若売《ワクメ》と狎れて、女は下総に配せられると同時に、土佐の国に流された。若売は恐らく貢女として、地方出の采女と異名同実の役をして居たものと思はれる。采女の制度のまだ厳重な時代であつたから、故左大臣の子として、役こそはまだ低かつたが、人の思はくの重々しい位置にあつたに拘らず、政綱粛正の為か、藤原氏の一流人物の急死から、他氏を恐れた政略かの犠牲として、辺土に遣られたものと思はれる。とにかく世人の目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つたことは察せられる。
併し又一方、若売は藤原宇合の妻で、百川の生母である。夫が時疫で亡くなつた時は、当時六歳の百川が居た。此事件が持ちあがつたのは、翌々年に秘事が顕れたのであつた。一年も居ない中に、大赦で許されて後、又元の無位から従四位下までになつて、子を四十八で亡くし、自分は一年後にあとを追うた。だから内輪に見積つても、六十五以上になるまで、恐らく命婦《ミヤウブ》として宮仕へをしたであらうし、下総へ送られた時は、二十五より若くはなかつたであらう。其から見ると、藤原の式家の後室であつたのだ。当時ありふれた此事件に対して、刑の適用が姦通としてなら、少しく厳重過ぎてゐる様だ。橘三千代の様なもつと自由にふるまうた先輩も居たほどなのだから。
平安朝の初め大同元年に、采女の資格を三十から四十までの、当時夫のないものと言ふことに定めてゐる(類聚三代格)。かう言ふ改正規定の出たのは此時はじめて英断をしたのではないに相違ない。信仰上の事は、無意識の変更があつても、知つて改める事は畏れられてゐたから。既に奈良朝にも、寡婦と処女とを同格に見る風が出来てゐたことゝ思はれる。此事は沖縄の女神職なる君《キミ》・祝女《ノロ》の大部分に亘つて沿革が見えるのである。寡婦で貢女の役を勤めて居た為、采女としての浄さの保たれなかつた事が、問題の中心になつたと考へてよさゝうである。
日本小説の源流は、黒川真頼にも注意せられて、浦島子伝・柘枝《ツミノエ》伝が挙げられた。友人武田祐吉も、この点に注意してゐる。併し、単なる創作として考へられて居る(上代国文学の研究)のはどうだらう。もつと誇らかな心を持つて、支那の小説と似たものを、固有と考へた民譚と言ふよりは叙事詩の中に見出して、此を漢文に訳したのである。技巧の不十分な為内容以上に文飾の勝つたものばかりが出来たに違ひないが、其一部分が残つた外は、名だけ留つたものゝ外に、まだ若干の叙事詩・民譚の記録のあつたことを、想像することが出来る。
近世の意味ではない小説が、日本人の手で散文に書き取られ、神仙秘伝其儘の、神女の誘ひに従うて、恋の楽土に遊んだ話は、数多あつた。丹後の地にあつた浦島子の叙事詩、吉野川を中心に固定した柘《ツミ》の枝《エ》に化生して漁師を誘うた吉志美《キシミ》ヶ嶽の神女の外にも、駢儷体の文章に飜《ウツ》されたらうが、男神が人間の女に通ふ型のとりわけ我国に多い言語伝承の例は、張文成其他の小説記録者の熱意を持たなかつたところだから、我国の民譚飜訳者の手にかゝつたらうとは思はれない。
今は一つの証拠すら残つてゐない方面で、存在の疑はれぬのは、宮廷隠事の書き物である。飛鳥の末にすら、浦島子伝が書かれたのである。奈良に入つて、漢文を作る能力も進み、熱意も加つて来た時代に、目にし耳にした宮廷生活に関する浮説、殊にまだ女帝に於て神との交渉が密接であり、自然外部の空想を逞しうさせるゆとりが十分あつた。則天武后に係つた小説を見た眼からは、武后の生活が、最高の女性の上にも、見出され易い。其が、進んだ奈良末期・平安初期の不純な創作気分を交へて来た心には、誇張せられ、強調せられて出て来る。文にも一々手本があつて其をなぞつたのであるから、どうしても、事実に遠くなる。かなり外的興味の豊かだつた持統天皇は、時代が古かつた為か、行文の不如意から来る舞文の為に呪はれなされずにすんだ。元明・元正二帝も、大事件の生じなかつた為か、何の痕跡も残つてゐない。孝謙天皇の時は、実際事件も多かつた。経済状態は一時に高まつて来た。宮廷生活も文明的施設が整うて来た。武后の姿を日本に見る時が来たのである。ある点まで、二人の侍臣についた伝説は、事実かも知れない。併し、すべてを信じる訣にはいかぬ。宗教的行動に出られる時の心持ちは、さうした側に冷淡な六国史流の記述では知られない。道鏡を重用せられたのも、新渡《イマキ》の神の威力を尊重する様になつて居た宮廷の神の心によつたもので、宇佐も、ほんとうは、新現出の神である。此等の神に神慮を問ふ事が、女帝の祀る神の意志でもあつたのだ。
平安朝から、鎌倉へかけて、女帝と寵臣との靡爛した生活を書いた物は、恐らく奈良末・平安初期の和製武后伝に煩ひせられて居る事が多いのに違ひない。語原の意義が、第二義を含みかけた時代の小説で、国文で書かなかつたものを言ふところに、注意をする必要がある。続日本紀編纂の際に、此類の書物の影響のあつたことは否まれない。半月程前、高野斑山氏に会うた人の話に、高野氏は「如意君伝」を持つて居られる。此書は女帝の史実と伝へて居るものゝ原本らしいと言はれたさうである。私の古くから抱いてゐた仮定に賛成者を得た気がした。高野氏に借覧を乞うて見たいと思うてゐる。

     二

石上乙麻呂の事件なども、逆に或は叙事詩から出て「石《イソ》[#(ノ)]上布留《カミフル》の命」と言ふ文句が世間で乙麻呂の事と伝へられた為に、歴史として確実性を持つ様になつたとも思はれぬではない。二人の配流・赦免の記事なども、史家の主観的な解釈が加へられて居るかも知れぬし、其根柢に、情史的の小説が漢文で書かれたとなれば、続紀に入り込む道筋はわかる。大赦の連名などの中に、合理的な解釈で一人を添へる事も出来るはずである。
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石《イソ》[#(ノ)]上布留《カミフル》の命は、嫋女《タワヤメ》の惑《マド》ひによりて、馬じもの縄とりつけ、鹿《シヽ》じもの弓矢|囲《カク》みて、大君の命畏み、天|離《サカ》る鄙辺《ヒナベ》に退《マカ》る。ふるごろも真土《マツチ》の山ゆ帰り来ぬかも(万葉集巻六)
大君の命畏み、さしなみの国にいでます、はしきやし我が夫《セ》の君を、かけまくもゆゝし畏し、住《スミ》[#(ノ)]吉《エ》の現人神《アラヒトガミ》の、舟の舳《ヘ》にうしはき給ひ、着き給はむ島の崎々、より給はむ磯の崎々、荒き波 風に遭はせず、つゝみなく、病あらせず、速《スム》やけく返し給はね。本つ国べに
父君に我は愛子《マナゴ》ぞ。母|刀自《トジ》に我は寵子《メヅコ》ぞ。参上《マヰノボ》る八十氏人の 手向《タム》けする懼《カシコ》[#(ノ)]坂《サカ》に、幣《ヌサ》奉《マツ》り、我はぞ退《マカ》る。遠き土佐路を
大崎の神の小浜《ヲハマ》は狭けれど、百舟人《モヽフナビト》も 過ぐと言はなくに
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此四首は、はじめの二つが近親の者の歌で、後の長短歌各一首が乙麻呂のものと見える様になつてゐる。短歌は長歌の反歌とも見えるが、三首目の「父君に我は愛子《マナゴ》ぞ。母刀自に我は寵《メヅ》子ぞ」と言ふ謡ひ出しは、父母に愛せられて育つた、遠い旅にも出たこともない自分がと言ふつもりと説けばわかるが、後の子とは続かなくなつてゐる。
其にしても、此歌は青年の述懐で、恐らく若売《ワクメ》より年長だつたらうと思はれる此人だから、三十前後でゐて、此歎きを洩すのは、如何に童心を失はぬ万葉人にしてもふさはしくない気がする。父は早く死んでゐる。現在の家なる父母を思ふものとすれば、事実にあはない。母に万葉で「妣」の字を宛てたのは、歿後の父母なる事を示したと言ふ事も出来ようが、唯母と通用したものだらう。そして、唯色々な形の歌を組み入れたゞけと見る方がよい。
長・短・旋頭歌・片哥などを一団とした「組み歌」らしいものは、記紀に見えてゐる。後世ほど「組み歌」の一つ/\に思想の連絡を失ふ様になつて行く。古い処には、ともかくも、一つの態度なり、一つの思想なりが見える。此なども其一つである。此等も身ぶり或は人形が伴うてゐたのではないだらうか。此問答や道行きぶり[#「道行きぶり」に傍線]に近い文章が、劇的動作を思はせる。
形は贈答に見えても、実はさうでない。此短歌は
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ちはやぶる鐘个岬《カネガミサキ》を過ぎぬとも 我は忘れじ。志珂《シカ》の皇神《スメガミ》(万葉巻七)
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と全く一つで、神に媚び仕へるものである。「神様、あなたのいらつしやる浜は小さいけれど、どの船でも皆お参りせずに通り過ぎはしませぬ」と言ふ意味で、神の機嫌をなだめる歌である。一種の呪文として用ゐられる素質を持つて居る事になる。此なども一回きりの歌でなく、大崎を過ぎる時に、神に対して唱へた、きまり文句だつたと言へよう。次は宅守《ヤカモリ》相聞である。

     三

乙麻呂の恩恵に浴されなかつた天平十二年の大赦に、中臣宅守も、同じ数の一
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