人として列ねられてゐる(続紀)。赦に入らぬ罪名に挙げられた中の※[#「姦+干」、481−13]他妻といふのが、宅守の罪に当つてゐたのではなからうか。万葉集目録によると、重婚の罪のやうに見える。天平十一年以前に配流せられたものと思はれるが、さして長く居たのでもあるまい。宝字七年には従六位上から、従五位下になつてゐるから、乙麻呂とほゞ同じ頃に赦されたのであらう。乙麻呂ほど身分高い人でもなかつた為、注意を惹かなかつた点もあらうが、罪は越前への近流だけに稍《やや》軽かつたであらう。相手方の狭野《サヌ》[#(ノ)]茅上《チガミ》[#(ノ)]郎女《イラツメ》は罪に問はれて居ないらしい。此六十三首の贈答は、前のから見ると、伝来の誤りもなさゝうだし、時代も新しく見える。此は前の様な成立を持つたものではないと思はれる。併し、此もどうして伝つたのか、伝来の径路が疑はれる。強ひて言はゞ、好事の創作歌人が、軽太子・春日皇女等の故事に似た此情史を伝へた為、仮託したものかとも思はれる。併し尚、巡游伶人の手を経たものと考へられる廉がある。
万葉の左註は、歌の趣きから割り出したものが多い。処が、歌々の小序も多くはやはり其で、作者が明らかに書き添へたものと見える外は、後からの「追ひ書き」である。さうして屡《しばしば》、製作時の境遇・作者等について、伝来の誤説や、筆録者の誤解などが交つて居る。年代の古い歌の序文は、大抵此追ひ書きである。
譬へば三山の歌(万葉集巻一)の如きは、長歌の不完全な為に、三山に寄せて思を陳べられた自己弁護の御製らしく見える。それで勢ひ、反歌の中の「わたつみの豊旗雲《トヨハタグモ》」の歌は、同時の作でない様に考へられ易い。此は小引の大変な間違ひで、恐らく「天皇の播州印南に行幸せられた時の御製」とでもあるべきものなのだ。さすれば、第一の反歌の「立ちて見に来し印南国原」と言ふ、主格脱落の内でも、とりわけ不思議な姿に見えるのも、どうやらわかる。「出雲国を出発して見に来た其印南の国が、此よ」と言ふ事になるし、第二首も、印南の海岸の酒宴の即興としてよく通る。長歌は、周知の事を、其神話に関係深い地に来て思ひ出し、更に人の世の三角恋愛の避け難いことを、軽く同感的に言うたに過ぎない。
同じ事の違うた姿で出て居るのは、伝説に主観的誤解を加へて現したもの。一例は万葉集巻一の初めの方の、「中皇命《ナカツスメラミコト》使[#二]間人《ハシビト》[#(ノ)]連老《ムラジオユ》献[#一]歌」である。なぜ、間人老の名を出したのか。理由のない事である。此は「中皇命が間人老をして代作せしめて献られた歌」と言ふべきを間違へたのであると取る外はない。人麻呂の歌などは無名氏作になつたり、皇族方の御歌と書かれたりしてゐる。殊に人麻呂が某皇子を悼んだ歌だとか、人麻呂が某を悼んで其近親某に寄せた歌など言ふのは、作者と作物の対象人物とが知れてゐるばかりである時、宮廷詩人としての代作事務と言ふ事を考へに入れないでかゝつたからである。万葉編纂当時の序文もあらうし、既に其資料となつた記録にあつた小引もあるであらう。が、とにかく、此追申としての誤解を考へないでは、万葉を見る事は出来ぬ。
宅守相聞に左註があまり詳しく、製作の場合を示して居るのは、宅守なり茅上[#(ノ)]郎女なりの手記を其儘に写したものと見られない訣である。一体巻十五は、二部の歌の寄りあひである。百四十五首一纏りの天平八年遣新羅使人等の歌と此相聞集とより外はない。前の方は、多事であつた旅行記念に、当時勃興しかけて居た古歌採集熱から、丹念に古歌・新作を書きつけて置いたとすれば、成立の理由もわかる。
殊に今日我々が考へる様に、自由に創作詩が生れて来たものと考へられぬ時代なのだから、古歌になぞつて出来た一首の新歌でも尊ばれたものと思はれる。書記せられる理由は勿論あるのである。
宅守相聞になると、どういふ形式で贈答せられてゐたとしても、かうして纏る理由は考へられぬ。否一つある。其は先に言うた伝奇情史として、文学に目醒めた人が、代作気分の残つてゐる時代の一つの影響として、二人の唱和を、頼まれない代作としての芸術に仮託したものと見る事である。宅守に張文成を気どるだけの教養があつたら、自ら愛人との贈答を筆録したとも言へようが、宅守を張文成たらしめた代作者があつたと見る方が正しい。私は尚乙麻呂の場合の考へ方で見て行かう。
六十三首が、かなりの価値のあるものだと言ふ事が、巡游伶人の手を経なかつた理由にはならぬ。個性が明らかであるないの問題は、軽々しく主観では決められない。個性が著しいものには、寧、用心の要るのがある。其は劇的の構想を持つものほど、さうした思ひ違へを起させる要素が十分にあるからだ。
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君が行く道の長道《ナガテ》を 繰り畳《タヽ》ね、焼《ヤ》き亡ぼさむ 天《アメ》の火もがも(宅守相聞――万葉集巻十五)
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情熱の極度とも見える。が一方、劇的の興奮・叙事脈の誇張が十分に出てゐる。要は態度一つである。此までの本の読み方以外に、かうした態度から見ると、背景が易ると、価値も自ら変らずには居ない。悲痛な恋愛、不如意な相思、靡爛した性欲、――かう言ふ処に焦点を置くのは、民謡の常である。東歌を見れば、それはよく知れる。民謡を孕む叙事詩中の情史に、その要素が十分に湛へられて居るからである。
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過所《クワソ》なしに、関《セキ》飛び越ゆる時鳥。我が身にもがも(?)。止まず通はむ
今日もかも 都なりせば、見まく欲り、西の御厩《ミマヤ》の外《ト》に立てらまし(以上二首、宅守相聞――万葉集巻十五)
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など態度の持ち方で信頼も出来るし、不安な作為の痕をまざ/\と見る事も出来るのである。
行路の不安を思ふことはあつても、配処の苦しさや径路を述べもしない。極めて近い処に居る様な安気な気持ちを見せてゐる。
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宮人の安寐《ヤスイ》も寝ずて、今日けふと 待つらむものを。見えぬ君かも(同)
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などは恐らく旅行中に死んだ人を悼んで作つた歌らしく見える。此場合「見えぬ」は「見られに行かない」の意である。茅上娘子が隠し妻だから、宅守の家人の心持ちを思ひやつたのだとするのは、こぢつけであらう。
短歌の集団である事は、読ませる事を目的としたものらしく見える。併し、事実に於て、すべての詩形は、短歌にのり越されて来た時代である。長歌に対する反歌と言ふ様な形は、長歌に対して、片哥・旋頭歌・短歌その他が「組み」になる在来の声楽の様式の上に、外国音楽上にある反(或は乱)と言ふ様式との類似を重ねて来て出来たものである。必しも「長・反の組み」が、本式のものではなかつた。長短錯雑して居たのを、次第に整理して「長・反」様式が出来もした。一方、短歌ばかりの「組み歌」も出来た訣である。人麻呂の作と推定すべき日並知《ヒナメシ》[#(ノ)]皇子尊《ミコトノミコト》舎人歌廿三首は、舎人等の合唱に用ゐた一団の「組み」である。調子を改めて治める「反」又は「乱」と言ふ音楽上の様式は、発達しきらないで、日本音楽史では「組み歌」ばかりが全盛になつて行く。万葉集編纂の時にも既に、十五巻の二部の相違に心づかずに一括して出したのであらう。成立の動機は全然違うてゐることである。
四
こゝにお恥しい想像をつけ添へて、そつと心切な後人のもりたてを待つことにする。わが国のほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]にも、創作詩人の偉大な者が現れた事はないであらうか。伝統の職業として「ほかひ」し「物語」る詩に整へられた内界を持つて、日本の歌の歴史に、創作詩の時代をわりあひに早く招きよせた天才があつたのではなからうか。死霊に聞かせるよごと[#「よごと」に傍線]とも言ふべきしぬびごと[#「しぬびごと」に傍線]=誄――語《ことば》だけは遅れて出来たもので、古くはやはりよごと[#「よごと」に傍線]と言うたであらう――の為事を奪ふばかりに、後の所謂竹林楽なる挽歌が進んで来たのは、死霊を慰めた遊部《アソビベ》の歌舞と、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の進んだ詞句との交渉があつたであらう。遊部は舞を専《もつぱら》にし、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]が竹林楽の詞曲を作成する時が来た。其が、宮廷詩人の初まりである。喪事から段々離れ、醇化して宴席の曲その他を作る様に進んで来るが、新よごと[#「新よごと」に傍線]の製作は、段々散文化すると共に、教養ある学曹の手に移つて行つた。
一方神遊びの詞曲・狂乱の舞踊の文句は、古伝ある物以外は、民謡・童謡をとつて、此側の出身者の手を煩さなかつたのであらう。
古墳の多い奈良南郊に本貫のある柿本氏は、遊部・ほかひ[#「ほかひ」に傍線]に何の関係もないか。私は、人麻呂をほおまあ[#「ほおまあ」に傍線]にして、更に詩形に改革を促したものと考へてゐる。ほかひ[#「ほかひ」に傍線]の家元とも言ふべきよごと部[#「よごと部」に傍線]・ほかひ部[#「ほかひ部」に傍線]の伴造《トモノミヤツコ》ではないか。柿本氏が倭朝廷の遊部又は「吉言部《ヨゴトベ》」から出たとすれば、極めて意味のあることになるのだ。私は、人麻呂が、山陰の西、中国を歩いて居るのは、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の足跡の及んで居た一部を示すものかと思ふ。
ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の間に、文芸の才の優れた者が続出するうちには、叙事詩としておもしろいものゝ新作が出来て来るであらう。宅守相聞の如きは、単に文人意識ある有識者の手で作られたものと言ふより、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の補綴によつてなつた「組み歌」なること、ずつと後世の世阿弥の如き専門家の手で出来た、意識的に旧叙事詩を改作・補綴したものではないかと思ふのである。
右の仮説は、今は真の仮説に止るであらう。併し、宅守・茅上相聞の歌が、創作詩でないことだけは考へねばならぬ。
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我々の国に於て、異神の信仰を携へ歩いた事は、幾度であるか知れない。古く常世神・八幡神の如きが見えるのは、神道の上にも、段々の変遷増加のあつたことを示してゐるのだ。倭媛の如きも、実は日の神の教への布教者として旅を続けた人であつたのである。倭を出た神は、伊勢に鎮座の処を見出したのであつた。此高級巫女から伺はれる事実は、飛鳥・藤原の時代に既に、異教の村々を巡遊した多くの巫女のあつたことである。豊受[#(ノ)]神は丹波から移り、安菩《アホ》[#(ノ)]神は出雲から来て居る。同時に古代幾多の貴種流離譚は、一部分は、神並びに神を携へて歩いた人々の歴史を語つてゐるのである。天[#(ノ)]日矛の物語・比売許曾《ヒメコソ》の縁起は、史実と言ふより、蕃神渡来の記憶を語るものであらう。
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底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店
1929(昭和4)年4月25日発行
※題名下に「大正十五年頃草稿」の記載あり。
※底本の題名の下に書かれている「大正十五年頃草稿」はファイル末の「注記」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年8月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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