きつけて置いたとすれば、成立の理由もわかる。
殊に今日我々が考へる様に、自由に創作詩が生れて来たものと考へられぬ時代なのだから、古歌になぞつて出来た一首の新歌でも尊ばれたものと思はれる。書記せられる理由は勿論あるのである。
宅守相聞になると、どういふ形式で贈答せられてゐたとしても、かうして纏る理由は考へられぬ。否一つある。其は先に言うた伝奇情史として、文学に目醒めた人が、代作気分の残つてゐる時代の一つの影響として、二人の唱和を、頼まれない代作としての芸術に仮託したものと見る事である。宅守に張文成を気どるだけの教養があつたら、自ら愛人との贈答を筆録したとも言へようが、宅守を張文成たらしめた代作者があつたと見る方が正しい。私は尚乙麻呂の場合の考へ方で見て行かう。
六十三首が、かなりの価値のあるものだと言ふ事が、巡游伶人の手を経なかつた理由にはならぬ。個性が明らかであるないの問題は、軽々しく主観では決められない。個性が著しいものには、寧、用心の要るのがある。其は劇的の構想を持つものほど、さうした思ひ違へを起させる要素が十分にあるからだ。
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君が行く道の長道《ナガテ》を
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