子《メヅコ》ぞ。参上《マヰノボ》る八十氏人の 手向《タム》けする懼《カシコ》[#(ノ)]坂《サカ》に、幣《ヌサ》奉《マツ》り、我はぞ退《マカ》る。遠き土佐路を
大崎の神の小浜《ヲハマ》は狭けれど、百舟人《モヽフナビト》も 過ぐと言はなくに
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此四首は、はじめの二つが近親の者の歌で、後の長短歌各一首が乙麻呂のものと見える様になつてゐる。短歌は長歌の反歌とも見えるが、三首目の「父君に我は愛子《マナゴ》ぞ。母刀自に我は寵《メヅ》子ぞ」と言ふ謡ひ出しは、父母に愛せられて育つた、遠い旅にも出たこともない自分がと言ふつもりと説けばわかるが、後の子とは続かなくなつてゐる。
其にしても、此歌は青年の述懐で、恐らく若売《ワクメ》より年長だつたらうと思はれる此人だから、三十前後でゐて、此歎きを洩すのは、如何に童心を失はぬ万葉人にしてもふさはしくない気がする。父は早く死んでゐる。現在の家なる父母を思ふものとすれば、事実にあはない。母に万葉で「妣」の字を宛てたのは、歿後の父母なる事を示したと言ふ事も出来ようが、唯母と通用したものだらう。そして、唯色々な形の歌を組み入れたゞけと見る方がよい。
長・短・旋頭歌・片哥などを一団とした「組み歌」らしいものは、記紀に見えてゐる。後世ほど「組み歌」の一つ/\に思想の連絡を失ふ様になつて行く。古い処には、ともかくも、一つの態度なり、一つの思想なりが見える。此なども其一つである。此等も身ぶり或は人形が伴うてゐたのではないだらうか。此問答や道行きぶり[#「道行きぶり」に傍線]に近い文章が、劇的動作を思はせる。
形は贈答に見えても、実はさうでない。此短歌は
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ちはやぶる鐘个岬《カネガミサキ》を過ぎぬとも 我は忘れじ。志珂《シカ》の皇神《スメガミ》(万葉巻七)
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と全く一つで、神に媚び仕へるものである。「神様、あなたのいらつしやる浜は小さいけれど、どの船でも皆お参りせずに通り過ぎはしませぬ」と言ふ意味で、神の機嫌をなだめる歌である。一種の呪文として用ゐられる素質を持つて居る事になる。此なども一回きりの歌でなく、大崎を過ぎる時に、神に対して唱へた、きまり文句だつたと言へよう。次は宅守《ヤカモリ》相聞である。

     三

乙麻呂の恩恵に浴されなかつた天平十二年の大赦に、中臣宅守も、同じ数の一
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