ある。ある点まで、二人の侍臣についた伝説は、事実かも知れない。併し、すべてを信じる訣にはいかぬ。宗教的行動に出られる時の心持ちは、さうした側に冷淡な六国史流の記述では知られない。道鏡を重用せられたのも、新渡《イマキ》の神の威力を尊重する様になつて居た宮廷の神の心によつたもので、宇佐も、ほんとうは、新現出の神である。此等の神に神慮を問ふ事が、女帝の祀る神の意志でもあつたのだ。
平安朝から、鎌倉へかけて、女帝と寵臣との靡爛した生活を書いた物は、恐らく奈良末・平安初期の和製武后伝に煩ひせられて居る事が多いのに違ひない。語原の意義が、第二義を含みかけた時代の小説で、国文で書かなかつたものを言ふところに、注意をする必要がある。続日本紀編纂の際に、此類の書物の影響のあつたことは否まれない。半月程前、高野斑山氏に会うた人の話に、高野氏は「如意君伝」を持つて居られる。此書は女帝の史実と伝へて居るものゝ原本らしいと言はれたさうである。私の古くから抱いてゐた仮定に賛成者を得た気がした。高野氏に借覧を乞うて見たいと思うてゐる。

     二

石上乙麻呂の事件なども、逆に或は叙事詩から出て「石《イソ》[#(ノ)]上布留《カミフル》の命」と言ふ文句が世間で乙麻呂の事と伝へられた為に、歴史として確実性を持つ様になつたとも思はれぬではない。二人の配流・赦免の記事なども、史家の主観的な解釈が加へられて居るかも知れぬし、其根柢に、情史的の小説が漢文で書かれたとなれば、続紀に入り込む道筋はわかる。大赦の連名などの中に、合理的な解釈で一人を添へる事も出来るはずである。
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石《イソ》[#(ノ)]上布留《カミフル》の命は、嫋女《タワヤメ》の惑《マド》ひによりて、馬じもの縄とりつけ、鹿《シヽ》じもの弓矢|囲《カク》みて、大君の命畏み、天|離《サカ》る鄙辺《ヒナベ》に退《マカ》る。ふるごろも真土《マツチ》の山ゆ帰り来ぬかも(万葉集巻六)
大君の命畏み、さしなみの国にいでます、はしきやし我が夫《セ》の君を、かけまくもゆゝし畏し、住《スミ》[#(ノ)]吉《エ》の現人神《アラヒトガミ》の、舟の舳《ヘ》にうしはき給ひ、着き給はむ島の崎々、より給はむ磯の崎々、荒き波 風に遭はせず、つゝみなく、病あらせず、速《スム》やけく返し給はね。本つ国べに
父君に我は愛子《マナゴ》ぞ。母|刀自《トジ》に我は寵
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