大部分に亘つて沿革が見えるのである。寡婦で貢女の役を勤めて居た為、采女としての浄さの保たれなかつた事が、問題の中心になつたと考へてよさゝうである。
日本小説の源流は、黒川真頼にも注意せられて、浦島子伝・柘枝《ツミノエ》伝が挙げられた。友人武田祐吉も、この点に注意してゐる。併し、単なる創作として考へられて居る(上代国文学の研究)のはどうだらう。もつと誇らかな心を持つて、支那の小説と似たものを、固有と考へた民譚と言ふよりは叙事詩の中に見出して、此を漢文に訳したのである。技巧の不十分な為内容以上に文飾の勝つたものばかりが出来たに違ひないが、其一部分が残つた外は、名だけ留つたものゝ外に、まだ若干の叙事詩・民譚の記録のあつたことを、想像することが出来る。
近世の意味ではない小説が、日本人の手で散文に書き取られ、神仙秘伝其儘の、神女の誘ひに従うて、恋の楽土に遊んだ話は、数多あつた。丹後の地にあつた浦島子の叙事詩、吉野川を中心に固定した柘《ツミ》の枝《エ》に化生して漁師を誘うた吉志美《キシミ》ヶ嶽の神女の外にも、駢儷体の文章に飜《ウツ》されたらうが、男神が人間の女に通ふ型のとりわけ我国に多い言語伝承の例は、張文成其他の小説記録者の熱意を持たなかつたところだから、我国の民譚飜訳者の手にかゝつたらうとは思はれない。
今は一つの証拠すら残つてゐない方面で、存在の疑はれぬのは、宮廷隠事の書き物である。飛鳥の末にすら、浦島子伝が書かれたのである。奈良に入つて、漢文を作る能力も進み、熱意も加つて来た時代に、目にし耳にした宮廷生活に関する浮説、殊にまだ女帝に於て神との交渉が密接であり、自然外部の空想を逞しうさせるゆとりが十分あつた。則天武后に係つた小説を見た眼からは、武后の生活が、最高の女性の上にも、見出され易い。其が、進んだ奈良末期・平安初期の不純な創作気分を交へて来た心には、誇張せられ、強調せられて出て来る。文にも一々手本があつて其をなぞつたのであるから、どうしても、事実に遠くなる。かなり外的興味の豊かだつた持統天皇は、時代が古かつた為か、行文の不如意から来る舞文の為に呪はれなされずにすんだ。元明・元正二帝も、大事件の生じなかつた為か、何の痕跡も残つてゐない。孝謙天皇の時は、実際事件も多かつた。経済状態は一時に高まつて来た。宮廷生活も文明的施設が整うて来た。武后の姿を日本に見る時が来たので
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