ツスメラミコト》使[#二]間人《ハシビト》[#(ノ)]連老《ムラジオユ》献[#一]歌」である。なぜ、間人老の名を出したのか。理由のない事である。此は「中皇命が間人老をして代作せしめて献られた歌」と言ふべきを間違へたのであると取る外はない。人麻呂の歌などは無名氏作になつたり、皇族方の御歌と書かれたりしてゐる。殊に人麻呂が某皇子を悼んだ歌だとか、人麻呂が某を悼んで其近親某に寄せた歌など言ふのは、作者と作物の対象人物とが知れてゐるばかりである時、宮廷詩人としての代作事務と言ふ事を考へに入れないでかゝつたからである。万葉編纂当時の序文もあらうし、既に其資料となつた記録にあつた小引もあるであらう。が、とにかく、此追申としての誤解を考へないでは、万葉を見る事は出来ぬ。
宅守相聞に左註があまり詳しく、製作の場合を示して居るのは、宅守なり茅上[#(ノ)]郎女なりの手記を其儘に写したものと見られない訣である。一体巻十五は、二部の歌の寄りあひである。百四十五首一纏りの天平八年遣新羅使人等の歌と此相聞集とより外はない。前の方は、多事であつた旅行記念に、当時勃興しかけて居た古歌採集熱から、丹念に古歌・新作を書きつけて置いたとすれば、成立の理由もわかる。
殊に今日我々が考へる様に、自由に創作詩が生れて来たものと考へられぬ時代なのだから、古歌になぞつて出来た一首の新歌でも尊ばれたものと思はれる。書記せられる理由は勿論あるのである。
宅守相聞になると、どういふ形式で贈答せられてゐたとしても、かうして纏る理由は考へられぬ。否一つある。其は先に言うた伝奇情史として、文学に目醒めた人が、代作気分の残つてゐる時代の一つの影響として、二人の唱和を、頼まれない代作としての芸術に仮託したものと見る事である。宅守に張文成を気どるだけの教養があつたら、自ら愛人との贈答を筆録したとも言へようが、宅守を張文成たらしめた代作者があつたと見る方が正しい。私は尚乙麻呂の場合の考へ方で見て行かう。
六十三首が、かなりの価値のあるものだと言ふ事が、巡游伶人の手を経なかつた理由にはならぬ。個性が明らかであるないの問題は、軽々しく主観では決められない。個性が著しいものには、寧、用心の要るのがある。其は劇的の構想を持つものほど、さうした思ひ違へを起させる要素が十分にあるからだ。
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