走り込んで、泣くばかり大きな声で、この邪念を払はせたまへと祈つた。
五度目の写経を見た彼は、もう叱る心もなくなつてゐた。
程近い榎津や粉浜の浦で、漁る魚にも時々の移り変りはあつた。秋の末から冬へかけて、遠く見渡す岸の姫松の梢が、海風に揉まれて白い砂地の上に波のやうに漂うてゐる。庭の松にも鶉の棲む日が来た。住吉の師走祓へに次いで生駒や信貴の山々が連日霞み暮す春の日になつた。弟子たちは畑も畝うた。猟にも出かけた。瓜生野の座の庭には、桜や、辛夷は咲き乱れた。人々は皆旅を思うた。源内法師は忘れつぽい弟子達の踊りの手振りや、早業の復習の監督に暇もない。住吉の神の御田に、五月処女の笠の動く、五月の青空の下を、二十人あまりの菅笠に黒い腰衣を着けた姿が、ゆら/\と陽炎うて、一行は旅に上つた。
横山のかげが、青麦のうへになびく野を越えて、奈良から長谷寺に出た一行は、更に、寂しい伊賀越えにかゝつた。草山の間を白い道がうねつて行く。荒廃した海道は、処々叢になつてゐて、まひ立つ土ぼこりのなかに、野※[#「木+(虍/且)」、第4水準2−15−45]《ノジトミ》が血を零したやうに咲いてゐたりした。
小汗のにじむ日
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