三度目の血書にかゝつた。その経文も穢らはしいといふ一語の下に前栽へ投げ棄てられた。
連夜の不眠に、何うかすると、筆を持つて机に向つたまゝ、目を開いて睡つた。さうした僅かの間にも、妹娘や見も知らぬ処女の姿がわり込んで来る。
四度目の血書を恐る/\さし出したときに、師匠の目はやはり血走つてゐたが、心持ち柔いだ表情が見えて、
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人を恨むぢやないぞ。危い傘飛びの場合を考へて見ろ。若し女の姿が、ちよつとでもそちの目に浮んだが最後、真倒様だ。否でも片羽にならねばならぬ。神宮寺の道心達の修業も、こちとらの修業も理は一つだ。
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写経のことには一言も言ひ及ばなかつた。そして部屋へ下つて、一眠りせいと命じた。経文は膝の上にとりあげられた。執着に堪へぬらしい目は、燃えたち相な血のあとを辿つた。
自身の部屋に帰つて来た身毒は、板間の上へ俯伏しに倒れた。蝉が鳴くかと思うたのは、自身の耳鳴りである。心づくと黒光りのする板間に、鼻血がべつとりと零れてゐた。さうしてゐるうちに、放散してゐた意識が明らかに集中して来ると、師匠の心持ちが我心に流れ込む様に感ぜられて来る。あれだけの心労をさせるのも、自分の科だと考へられた。身毒は起き上つた。そして、机に向うて、五度目の写経にとりかゝるのである。夢心地に、半時ばかりも筆を動かした。然し、もう夢さへも見ることの出来ない程、衰へきつてゐる。疲れ果てた心の隅に、何処か薄明りの射す処があつて、其処から未見ぬ世界が見えて来相に思はれ出した。身毒は息を集め、心を凝して、その明るみを探らうと試みる。
源内法師は、この時、まだ写経を見つめてゐた。さうしてゐるうちに、涙が頬を伝うて流れた。俄かに大きな不安が、彼の頭に蔽ひかゝつて来た。九年前のあぢきない記憶が頭を擡げて来たのである。四巻の経文をとり出して、紙も徹るばかりに見入つた。どれにも思ひなしか、鮮かな紅の色が、幾分澱んで見えた。
部屋には、大きな櫛形の窓がある。それから見越す庭には、竹藪のほの暗い光りの中に、百合の花が、くつきりと白く咲いてゐる。
師匠が亡くなつてから、丹波氷上の田楽能の一座の部領に迎へられて、十年あまりをそこで過して居つたが、兄弟子の信吉法師が行方不明になつた頃呼び戻されて、久しぶりで住吉に帰つた。氷上で娶つた妻も早く死んで、固より子もなかつた。兄弟子に対
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