する好意、妻や子に対する愛情を集めて、身毒一人を可愛がつた。二年三年たつうちに、信吉法師が何処かの隅から、今にも戻つて来て、身毒を奪うて行き相な心持ちがした。思ひなげな目を挙げて、覗き込む身毒の顔を見ると、いよ/\愛着の心が深くなつて行く。
信吉法師が韜晦してから、十年たつた。彼はある日、ふと指を繰つて見て、十年といふことばの響きに、心の落ちつくのを感じた。信吉の馳落ちの噂を耳にしたとき、業病の苦しみに堪へきれなくなつて、海か川かへ身を投げたものと信じてゐた。遠い昔のことである。ある時信吉法師は寂寥と、やるせなさとを、この親身な相弟子に打ちあけて聞かしたのであつた。源内法師は足音を盗んで、身毒の部屋の方へ歩いて行つた。
身毒は板敷きに薄縁一枚敷いて、経机に凭りかゝつて、一心不乱に筆を操つてゐる。捲り上げた二の腕の雪のやうな膨らみの上を、血が二すぢ三すぢ流れてゐた。
源内法師は居間に戻つた。その美しい二の腕が胸に烙印した様に残つた。その腕や、美しい顔が、紫色にうだ腫れた様を思ひ浮べるだけでも心が痛むのである。そのどろ/\と蕩けた毒血を吸ふ、自身の姿があさましく目にちらついた。彼は持仏堂に走り込んで、泣くばかり大きな声で、この邪念を払はせたまへと祈つた。
五度目の写経を見た彼は、もう叱る心もなくなつてゐた。
程近い榎津や粉浜の浦で、漁る魚にも時々の移り変りはあつた。秋の末から冬へかけて、遠く見渡す岸の姫松の梢が、海風に揉まれて白い砂地の上に波のやうに漂うてゐる。庭の松にも鶉の棲む日が来た。住吉の師走祓へに次いで生駒や信貴の山々が連日霞み暮す春の日になつた。弟子たちは畑も畝うた。猟にも出かけた。瓜生野の座の庭には、桜や、辛夷は咲き乱れた。人々は皆旅を思うた。源内法師は忘れつぽい弟子達の踊りの手振りや、早業の復習の監督に暇もない。住吉の神の御田に、五月処女の笠の動く、五月の青空の下を、二十人あまりの菅笠に黒い腰衣を着けた姿が、ゆら/\と陽炎うて、一行は旅に上つた。
横山のかげが、青麦のうへになびく野を越えて、奈良から長谷寺に出た一行は、更に、寂しい伊賀越えにかゝつた。草山の間を白い道がうねつて行く。荒廃した海道は、処々叢になつてゐて、まひ立つ土ぼこりのなかに、野※[#「木+(虍/且)」、第4水準2−15−45]《ノジトミ》が血を零したやうに咲いてゐたりした。
小汗のにじむ日
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