ります。それからその慣例について、謙譲な内容がなくなつてをります。
ところが、たゞ一ついゝことは、われ/\に非常に幸福な救ひの時が来た、といふことです。われ/\にとつては、今の状態は決して幸福な状態だとは言へませんが、その中の万分の一の幸福を求めれば、かういふところから立ち直つてこそ、本当の宗教的な礼譲のある生活に入ることが出来る。義人[#「義人」に傍点]のゐる、よい社会生活をすることが出来るといふことです。
しかし時々ふつと考へますのに、日本は一体宗教的の生活をする土台を持つてをるか、日本人自身は宗教的な情熱を持つてゐるか、果して日本的な宗教をこれから築いてゆくだけの事情が現れて来るか、といふことです。
事実、仏教徒の行動などを見ますと、実際宗教的な慣例に従つて宗教的な行動をして、宗教的な情熱を持つて来たやうにも見えますけれども、それは多くやはり、慣例に過ぎなかつたり、または啓蒙的な哲学を好む人たちが、享楽的に仏教思想を考へ、行動してゐるにすぎないといふやうな感じのすることもございます。殊に、神道の方になりますと、土台から、宗教的な点において欠けてゐるといふことが出来ます。
神道では
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