も知れないのです。たゞ残念なことに、さういふ事情に行かないうちに、ばた/\と維新の事業は解決ついてしまひました。それから幸福な、仮りに幸福な状態が続いて参りました。その為にまた再び神道を宗教化するといふことが、道徳的にいけない、道徳的に潔癖に障るやうな心持ちが、再び盛んに起つて参りました。さうして日本の神道といふものは、宗教以外に出て行かうとしました。
只今におきましても、神道の根源は神社にあり、神社以外に神道はない、と思つてゐられる方が、随分世の中にあるだらうと思ひます。それについて、なほ反省して戴かなければならない。相変らずさうして行けば、われ/\は遂に、西洋の青年たちにも及ばない、宗教的情熱のこれつぱかりもないやうな生活を、続けて行かなければならないのです。思うて見れば、日本の神々は、曾ては仏教家の手によつて、仏教化されて、神の性格を発揚した時代もあります。仏教々理の上に、日本の神々を活かしたこともあつた訣です。
さういふ意味において、従来の日本の神と、其上に、仏教的な日本の神といふものが現れて参りました。しかし同時に、さういふ二通りの神をば信じてゐたのです。しかもその仏教化せられた日本の神々は、これは宗教の神として信じられてゐたのではないのです。たとへば法華経では、これに附属した経典擁護の神として、わが国の神を考へ、崇拝せられて来たにすぎません。日本の神として、独立した信仰の対象になつてゐた訣ではありません。だから日本の神が本当に宗教的に独立した、宗教的な渇仰の的になつて来たといふ事実は、今までの間になかつたと申してよいと思ひます。
一体、日本の神々の性質から申しますと、多神教的なものだといふ風に考へられて来てをりますが、事実においては日本の神を考へます時には、みな一神的な考へ方になるのです。
たとへば、沢山神々があつても、日本の神を考へる時には、天照大神を感じる。或は高皇産霊神を感じる、或は天御中主神を感じるといふやうに、一個の神だけをば感じる考へ癖といふものがあります。その間にいろ/\な神々、最も卑劣な考へ方では、いはゆる八百万の神といふやうな神観は、低い知識の上でこそ考へてゐますが、われ/\の宗教的或は信仰的な考へ方の上には、本当は現れては参りません。日本といふ国の信仰の形は、さういふ風があると見えて、仏教の側で申しましても、多神的な信仰の方面を持ちな
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