神道に現れた民族論理
折口信夫
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(例)大王《オホギミ》
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(例)美豆《ミヅ》乃|小佩《ヲヒモ》
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一
今日の演題に定めた「神道に現れた民族論理」と云ふ題は、不熟でもあり、亦、抽象的で、私の言はうとする内容を尽してゐないかも知れぬが、私としては、神道の根本に於て、如何なる特異な物の考へ方をしてるかを、検討して見たいと思ふのである。一体、神道の研究については、まだ、一貫した組織が立つてゐない。現に、私の考へ方なども、所謂国学院的で、一般学者の神道観とは、大分肌違ひの所があるが、おなじ国学院の人々の中でも、細部に亘つては、又各多少の相違があつて、突き詰めて行くと、一々違つた考へ方の上に、立つてゐる事になるのである。
しかし、概して言ふと、今日の神道研究の多くは、善い点ばかりを、断篇的に寄せ集めたものである。どうも、此ではいけない。我々現代人の生活が、古代生活に基調を置いてゐるのは、確かな事実であるが、其中での善い点ばかりを抽き出して来て、其だけが、古代の引き継ぎであるとするのは、大きな間違ひであつて、善悪両方面を共に観てこそ、初めて其処に、神道の真の特質が見られよう、と云ふものである。私は、日本人としての優れた生活は、善悪両者の渾融された状態の中から生れて来てゐるのである、と思ふ。
今日でも、沖縄へ行くと、奈良朝以前の上代日本人の生活が、殆ど如実に見られるが、其処には深い懐しさこそあれ、甚むさくるしい部分もあるのである。若し上代の生活が、こんな物だつたとすれば、若い見学旅行の学生などには、余り好ましくない気がして、日本人の古代生活は云々であつた、といふ事を大声で云ふのは気耻づかしく感ずるであらう、と思ふ程である。しかし、其が真の古代生活であるならば、そして又、今日の生活の由つて来る所を示すものとしたら、研究者としては、耻ぢる事なしに此を調べて、仔細に考へて見る必要があらう。
又近頃は、哲学畑から出た人が、真摯な態度で神道を研究してゐられる事であるが、中にはお木像にもだん[#「もだん」に傍線]服を著せた様な、神道論も見受けられるやうである。此なども甚困つたものである。要するに、現代の神道研究態度のすべてに通じて欠陥がある、と私は思ふ。
そこで私の意見は、国学院雑誌(昭和二年十一月号の巻頭言)にも述べて置いたが、現代の神道研究に於ては、古代生活の根本基調、此をきいのおと[#「きいのおと」に傍線]といふか、てえま[#「てえま」に傍線]と云ふか、とにかく、大本の気分を定めるものが把握されてゐないのが、第一の欠点であると思ふ。すべての人は、常に、自分が生活してゐる時代や環境から、其神道説を割り出してゐるが、個性の上に立ち、時代思想の上に立つての神道研究は、質として、余りに果敢ないものである。我々が、正しく神道を見ようとするには、今少し、確かなものを掴んで来なければならぬ。
敢へてこんな事を言ふのは、僣越であるかも知れぬが、とにかく私としては、日本民族の思考の法則が、どんな所から発生し、展開し、変化して、今日に及んだかに注目して、其方向から探りを入れて見たい。いゝ事ばかりを抽象して来て、論じたのでは、結局嘘に帰して了ふ。
神道の美点ばかりを継ぎ合せて、それが真の神道だ、と心得てゐる人たちは、仏教や儒教・道教の如きものは、皆神道の敵だとしてゐるが、段々調べて見ると、神道起原だと思ふ事が、案外にも仏教だつたり、儒教又は道教だつたりする事が、尠くない。こんな事になるのは、つまり日本人の民族的思考の法則が、ほんとうに訣つてゐないからである。日本人の民族文明の基調が、外国人のものに比べて、どれだけ、特異に定められてゐるかを見ずに、末梢的な事ばかりに注意を払つてゐるから、いけないのである。
私は此民族論理の展開して行つた跡を、仔細に辿つて見て、然る後始めて、真の神道研究が行はれるのであると考へる。卒直に云ふならば、神道は今や将に建て直しの時期に、直面してゐるのではあるまいか。すつかり今までのものを解体して、地盤から築き直してかゝらねば、最早、行き場がないのではあるまいか。今までの神道説が、単に、かりそめ葺きの小屋の、建てましに過ぎなかつたのではあるまいか。今までの私は、全体的に芸術中心・文学中心の歴史を調べて行かうと志して、進行してゐたのであるが、結局それが、神道史の研究にも合致する事になつた。今日の処では、まだ/\発生点の研究に止まつてゐるが、こゝでは、其一端に就て述べて見たいと思ふ。
二
第一にまづ、言ひたいのは、日本の神道家の用語である。祭式上の用語とか、内務省風の用語とかでなく、昔から使はれてゐる神道関係の言葉が、どの位古い所まで突き詰めて研究されてゐるか、此が一番の問題であると思ふ。勿論或点までは、随分先輩の人々も試みられてゐるに違ひないが、それ等は何れも皆、天井でつかへてゐる。譬へば、神道といふ語自身が、何処から来てゐるかすら、今までに十分、徹底して調べた人がない。
私は、神道といふ語が世間的に出来たのは、決して、神道の光栄を発揮する所以でないと思ふ。寧、仏家が一種の天部・提婆の道、即異端の道として、「法」に対して「道」と名づけたものらしいのである。さうした由緒を持つた語である様だ。
日本紀あたりに仏法・神道と対立してゐる場合も、やはり、さうである。大きな教へに対して、其一部に含めて見てよい、従来の国神即、護法善神の道としての考へである。
だから私は、神道なる語自身に、仏教神道・陰陽師神道・唱門師神道・修験神道・神事舞太夫・諸国鍵取り衆などの影の、こびりついてゐる事は固より、語原其自身からして、一種の厭ふべき姿の、宿命的につき纏うてゐるのを耻づるのである。だから、今日の神道の内容を盛る語ではない、と信ずるので、近来、尠くとも私だけは、神道といふ語を使はない事にしてゐる。私は此自説を証明する文献上の拠り処を、今までに可なり多く見たが、若し果して、神道の光栄を表する語である事が、学問的に証明せられるやうならば、いつでも、真に喜び勇んで、元に引き戻す覚悟である。しかし今日の処では、神道それ自身の生んだ、光明に充ちた語である、とは思ふ事が出来ない。
記・紀若しくは、祝詞などを見ると、中には、古語・神語などいふべき古い語が、随分ある。其等の言葉は、不思議にも、大抵此を現代語に書き改めることの出来る程に、研究は積まれてゐるが、私の経験では、真に其が不思議である。私の今まで最苦しんだのは、祝詞であつた。既に、今までに、半分位、二度までも、口訳文を書き直して見たが、其結果、祝詞の表現法を余程会得した。尠くとも、私自身としては、胸の奥・心の底から感得したと思うてゐる。
私は学校で、万葉の講義をしてゐるが、時々、なぜこんなに、すら/\と平気に、講義をすることが出来るか、と不思議に思ふ事がある。先達諸家の恩に感謝する事は勿論であるが、此処に疑ひがある。教へながら、釈きながら居る人の態度として、懐疑的であるといふのは、困つたものであるが、事実、日本の古い言葉・文章の意味といふものは、さう易々と釈けるものではなさゝうだ。時代により、又場所によつて、絶えず浮動し、漂流してゐるのである。然るに、昔から其言葉には、一定の伝統的な解釈がついてゐて、後世の人は其に無条件に従うてゐるのである。私は、これ程無意義な事はないと考へる。
其は私が、祝詞に於ける経験及び、古事記或は降つて、源氏物語を現代語に訳し直して、書き改めて見ての、厳粛な実感であるが、譬へば「天之御蔭・日之御蔭」といふ言葉でも、さうである。恐らく現今では、あの言葉が、常に同じ用語例を守つてゐるもの、と信じてゐる人は尠いであらうが、尚、少数の守株の敬虔家のあることも考へられる。其外の古い言葉でも、記・紀・祝詞・続紀・風土記の類を通じて、用ゐられてゐる同語にして、同じ用語例に入れては、解けないものが多く存在する。此は、今日の言葉に就ても、言はれる事であらうと思ふが、其が典型的な語義である、と予断されてゐる以外に、もつと違つた形のある事が、忘れられてゐはすまいか。若しそんな事実がないと思ふならば、其は余りに、前代の学者の解釈にたより過ぎて、当然せねばならぬ研究を、十分にしてゐない為ではあるまいか。此だけは、どなたの前に立つても、私の言ひ得ることあげ[#「ことあげ」に傍線]である。
次田潤さんも、あの「祝詞新講」を公にされるまでには、随分苦しまれたであらうと思ふが、実際に古い言葉を現代語に引き直して見ると、つく/″\困難を感ずる。尤、一通りの解釈は誰にでもつくが、本当に深く考へ出すと、訣らない事が多い。思ふに此は、口伝への間に変化したもので、各時代、各個人の解釈で、類型的の意味に於ての語義の、次第に其形が改められて行つた結果であらう。
前に言うた「天之御蔭・日之御蔭」の語でも、家の屋根とも解せられるが、又万葉巻一の人麻呂の詠らしい「藤原宮御井歌」を見ると、天日の影をうつす水とも取れるし、其外尚色々の意味に解ける。かういふ処から考へると、何れも根本から分化して、各違つた用語例を持つ様になつたのであつて、其が大体、後世の合理解を経て――民間語原は固より、学者の研究も――即、最小公倍数式に、帰納して定められたのではあるまいか。万葉などを基礎にして考へると、どうも此語は、時代人によつて、訣らぬまゝに使はれてゐるらしい。或類型的な祭りとか、其他の類似の行事のときには、かういふ言葉を使はねばならぬものとして、只、無意味に使つてゐるのである。
私の解釈に依ると、この対句は、何れも、高所から垂下してゐる、飾り縄を意味するもので、かげ[#「かげ」に傍線]とは、元来、蔓草である。だから其が、宮殿を褒める時の詞とか、新室ほかひ[#「ほかひ」に傍線]の時の詞として、使はれてゐるのである。そこで、此が転じて来ると、宮殿其ものゝ意味ともなり、又更に転じては、ある解釈に於ける、穆々たる文王といつた、ほのぐらい処に奥深くいます、といふ意味にもなるのである。前にも述べた通り、万葉では此が、影うつす水の意味に転じてゐる。
かうなると、語意が浮動して来て、解釈がつかなくなつて来るが、段々研究を推し進めて行つて見ると、此歌は、宮殿の居まはりの山を讃め、水を讃める古い意味の風水――墓相でなく――をうたつた歌であるらしい。此は家を讃める事から来る当然の帰結であつて、家を讃める事は同時に、家主の生命を讃める事であり、又同時に、生命の本源として、魂として、家主の腹中に入る水を褒める事であるからである。高い新築家屋の屋根から、垂下してゐる飾り縄が、水の意味に成つたといふ事も、かういふ風に観て来れば、少しの不思議もないのである。
橘守部の痛快に解釈した「大王《オホギミ》の御寿《ミイノチ》は長く天《アマ》たらしたり」の歌なども「天之御蔭・日之御蔭」といふことが、類型的の表現になつてゐる為に、其間に、綱の事を云ふのを忘れて了うてゐるのである。そんな事をこくめいに云はずとも、漠然たる常套的の感じを誘ふ詞章で、天子の齢を祝福する事が出来るからである。其外に又、出雲国造神寿詞の「天乃美賀秘」――秘の字は、相変らず疑問――は、頭に冠るかつら[#「かつら」に傍線]の事であつて、此も畢竟、播磨風土記などに見えた、兜の類に言うたかげ[#「かげ」に傍線]であるが、普通の天之御蔭・日之御蔭とは、大分用ゐ方が違つてゐる。
とにかく、かうい
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