ふ風に祝詞を見ると、天之御蔭・日之御蔭といふ事は、色々な場合に使はれてゐるが、其意味は、常に一定してゐないのである。そして、其が殆ど、無理会のまゝに、使はれてゐるのである。
かういふ事を公言するのは、或は敬虔な先達に、礼を失することになるかも知れぬが、私は式の祝詞を、それ程古いものとは思つてゐない。其は言語史の上から立証出来る事である。尤《もつとも》文中の一部には、かなり古いものを含んだものもあるが、新しいものが最多くて、其上に、用語が不統一を極めてゐる。第一義とか、第二義・第三義といふ様な関係ではなく、口の上で固定した、不文の古典の中から、勝手に意味を抽き出して来て、面々の理会に任せて、使つてゐるのである。さすがに、古い神聖な信仰を伝へてゐる個処では、妄りに意味を替へる様な事をしないで、譬ひ意味が訣らずとも、固定のまゝ又は、曲りなりに使つてゐるが、それでも時代が重なると、替らざるを得ない事になる。
譬へば、神典の天孫降臨の章を見ても、記・紀を突き合せて見ると、凡三通りに分れてゐる。まづ古事記を見ると、「於[#二]天浮橋[#一]、宇岐士摩理、蘇理多多斯弖」とある。随分奇妙な文句であるが、日本紀の方には、これを「則自[#二]※[#「木+患」、第3水準1−86−5]日二上天浮橋[#一]立[#二]於浮渚在平処[#一]」となつてをり、更に一書にも、別様に伝へてゐるではないか。此等は何れも、それ/″\の、伝承の価値を重んじて書いたもので、後世の理会では、妄りに動かす事が出来ないから、記録当時まで、元の姿で置かれてゐたのである。
ところが、実用語となると、そんな訣にはいかない。新しい意味が加はると、段々其方に移つて行くから、何処までが、果して根本の語義に叶うてゐるのか、訣らなくなつて了ふ。今日伝はつてゐる解釈は、畢竟誰かゞ、いゝ加減な所で、合理的に解釈して出来たのではあるまいか、と思ふ。
とにかく、古い言葉を仔細に研究して見ると、今までの伝統の解釈は、殆ど唯、碁盤の上の捨て石の様な、見当定めの役の外、何にもなつてゐない事が多い。随つて、そんなものを深く信じ、基準にして、昔の文章を解く事は出来ないと思ふ。
三
日本人の物の考へ方が、永久性を持つ様になつたのは、勿論、文章が出来てからであるが、今日の処で、最古い文章だ、と思はれるのは、祝詞の型をつくつた、呪詞であつて、其が、日本人の思考の法則を、種々に展開させて来てゐるのである。私は此意味で、凡日本民族の古代生活を知らうと思ふ者は、文芸家でも、宗教家でも、又倫理学者・歴史家でも皆、呪詞の研究から出発せねばならぬ、と思ふ。
処が、其呪詞の後なる祝詞なるものさへ、前にも云つた如く、今日の頭脳では、甚難解なことが多い。鈴木重胤などは、ある点では、国学者中最大の人の感さへある人で、尊敬せずには居られぬ立派な学者であるが、それでも、惜しい事には、前人の意見を覆しきれないで、僅かに部分的の改造に止めた様であつた。そこで、訣らぬ事が沢山に出て来る。
まづ祝詞の中で、根本的に日本人の思想を左右してゐる事実は、みこともち[#「みこともち」に傍線]の思想である。みこともち[#「みこともち」に傍線]とは、お言葉を伝達するものゝ意味であるが、其お言葉とは、畢竟、初めて其宣を発した神のお言葉、即「神言」で、神言の伝達者、即みこともち[#「みこともち」に傍線]なのである。祝詞を唱へる人自身の言葉其ものが、決してみこと[#「みこと」に傍線]ではないのである。みこともち[#「みこともち」に傍線]は、後世に「宰」などの字を以て表されてゐるが、太夫をみこともち[#「みこともち」に傍線]と訓む例もある。何れにしても、みこと[#「みこと」に傍線]を持ち伝へる役の謂であるが、太夫の方は稍低級なみこともち[#「みこともち」に傍線]である。此に対して、最高位のみこともち[#「みこともち」に傍線]は、天皇陛下であらせられる。即、天皇陛下は、天神のみこともち[#「みこともち」に傍線]でお出であそばすのである。だから、天皇陛下のお言葉をも、みこと[#「みこと」に傍線]と称したのであるが、後世それが分裂して、天皇陛下の御代りとしてのみこともち[#「みこともち」に傍線]が出来た。それが中臣氏である。
古語拾遺は、其成立の本旨から見ても知れる如く、斎部広成が、やつき[#「やつき」に傍点]となつて、中臣・斎部の同格説を唱へてゐるが、私は元来、あの古語拾遺に余り重きを置いてゐない。古い事を研究するのには、あまり大切なものとは思へぬ。尠くとも、私の研究態度には、足手纏ひにこそなれ、あまり役立つて来てゐない事を告白する。私は、あの中には、確に、後世的の合理説が這入つてゐる、と思ふ部分が多いのであるが、そんな事は第二として、抑《そもそも》、中臣氏と斎部氏との社会的位置が同じであつた、といふ事からして、誤りである。斎部氏は最初から、決してみこともち[#「みこともち」に傍線]ではなかつたのである。謂はゞ、山祇のみこともち[#「みこともち」に傍線]といふ事になりさうに思ふ。ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の基礎になるいはひごと[#「いはひごと」に傍線]を、伝誦する部曲及び伴造であつたので、天子の代宣者とは言へないのである。古典研究者の資料鑑別眼が、幾ら進んでも、心理的観入の欠けた研究態度を以て、科学とする間は駄目だ、と思ふ。さういふ訣で、天子のみこともち[#「みこともち」に傍線]は、中臣氏である。だが、此は、根本に於ての話である。
広い意味に於ては、外部に対して、みこと[#「みこと」に傍線]を発表伝達する人は、皆みこともち[#「みこともち」に傍線]である。諸国へ分遣されて、地方行政を預る帥・国司もみこともち[#「みこともち」に傍線]なれば、其下役の人たちも亦、みこともち[#「みこともち」に傍線]として、優遇せられた。又、男のみこともち[#「みこともち」に傍線]に対して、別に、女のみこともち[#「みこともち」に傍線]もある。かういふ風に、最高至上のみこともち[#「みこともち」に傍線]は、天皇陛下御自身であらせられるが、其が段々分裂すると、幾多の小さいみこともち[#「みこともち」に傍線]が、順々下りに出来て来るのである。
此みこともち[#「みこともち」に傍線]に通有の、注意すべき特質は、如何なる小さなみこともち[#「みこともち」に傍線]でも、最初に其みこと[#「みこと」に傍線]を発したものと、尠くとも、同一の資格を有すると言ふ事である。其は、唱へ言自体の持つ威力であつて、唱へ言を宣り伝へてゐる瞬間だけは、其唱へ言を初めて言ひ出した神と、全く同じ神になつて了ふのである。だから、神言を伝へさせ給ふ天皇陛下が、神であらせられるのは勿論のこと、更に、其勅を奉じて伝達する中臣、その他の上達部――上達部は元来、神※[#「广+寺」、151−14]《カムダチ》部であつて、神※[#「广+寺」、151−14]に詰めてゐる団体人の意である――は、何れも皆、みこともち[#「みこともち」に傍線]たる事によつて、天皇陛下どころか直ちに、神の威力を享けるのである。つまり、段々上りに、上級のものと同格になるのである。
此関係は、ずつと後世にまで、伝はり残つてゐる。譬へば、寺々に附属してゐる唱門師がさうである。あれは元来、声聞身と呼ぶ、低い寺奴の階級であるが、諸方を唱へ言して歩いた。後には、陰陽道に入つて、陰陽師となつたものも多い。処が、此等の唱門師は、面白い事に、大抵藤原氏を名告つてゐる。此は、唱へ言を唱へることによつて、藤原氏と同格になる事を意味するのである。――此は、中臣になれない事情があるからの事で、又禁ぜられてもゐたのらしい――我々は時々、交通の不便な山間の僻村に、源氏又は平家・藤原の落人の子孫と称する人々の、部落を作つてゐることを見聞きするが、中には、一村皆藤原氏からなつてゐる、所謂落人村がある。ちよつと聞いたのでは、理由が判らぬが、実は皆、唱門師の住みついた空閑の新地である。祓へ言を唱へたからの名である。又蛇を退散させる呪文などに、「藤原々々ふぢはらや[#「ふぢはらや」に傍線]」などいふ句のあるのも、やはり、此唱門師の、藤原から来てゐるのである。
さういふ風に、本来のみこと[#「みこと」に傍線]を発した人と、此を唱へる者とが、一時的に同資格に置かれるといふ思想は、後になると、いつまでも、其資格が永続するといふ処まで発展して来た。天皇陛下が同時に、天つ神である、といふ観念は、其処から出発してゐるのであつて、其が惟神《かむながら》の根本の意味である。惟神とは「神それ自身」の意であつて、天皇陛下が唱へ言を遊ばされる為に、神格即惟神の現《アキ》つ御神《ミカミ》の御資格を得させられるのである。此惟神の観念は、中臣その他のみこともち[#「みこともち」に傍線]の上にも移して、考へる事が出来るのであつて、随つて、専《もつぱら》朝廷の神事を掌つた中臣が、優勢を占めるに至つたのは、固より当然の事である。
四
此中臣氏が、宮廷に於ける男性のみこともち[#「みこともち」に傍線]であつたのに対して、別に又、宮廷の婦人にも、一種のみこともち[#「みこともち」に傍線]らしいものがある。推察するところ、此等の婦人たちは、口でみこと[#「みこと」に傍線]を伝へたであらうと思はれるが、其が後に、文書の形に書き取られる様になつたのが、所謂、内侍宣・女房宣であらう。後期王朝になると、かういふ婦人たちを、みこともち[#「みこともち」に傍線]としての資格を持つてゐるもの、と考へてはゐなかつたらしいが、江家次第の類を見ると、まだ中臣女・物部女などの記載があつて、殊に、中臣女が屡、目に著く。此記録の書かれた時分には、既に固定して、無意味となつて了うてゐるが、これは元来、天皇陛下の御禊に陪して、種々のお手助けをする女である。
そこで、考へに上るのは、古い時代の后妃には、水神の女子が多い事である。私は近頃、水神及び、水神の巫女なる「水の女」の事を考へてゐるが、不思議にも、天孫降臨の最初のお后このはなのさくや[#「このはなのさくや」に傍線]媛だけは、おほやまつみ[#「おほやまつみ」に傍線]の娘であるけれど、其以後の后妃は、垂仁帝あたりまで、大抵、水神の娘である。さうして、さくや[#「さくや」に傍線]媛すら「水の女」の要素を十分に持つてゐられた事が窺へるのである。要するに、出雲系の神は皆「水の神」又は「水の女」で、試みに、すさのを[#「すさのを」に傍線]・おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]の系統を辿つて行くと、大抵水神であることを発見する。とにかく、代々の后妃に出雲系、随つて、水神系の多い事は、事実であつて、此で見ると、代々の妃嬪は古く皆、水神の娘の資格で、宮廷に上られ、更に、出雲系の女の形式を以て、仕へ始められたものといふ事が、出来さうなのである。
此に関聯して、一つ不思議なことがある。それは垂仁の巻に、后さほ[#「さほ」に傍線]媛が、兄と共に、稲城の中で焼け死なうとされた時に、天皇が使ひを遣して、「汝の堅めし美豆《ミヅ》乃|小佩《ヲヒモ》は誰かも解かむ」と問はしめ給ふと、さほ[#「さほ」に傍線]媛は美智能宇斯王《ミチノウシノミコ》の女の兄毘売・弟毘売をお使ひになつたらよからう、と奉答されてゐる一事である。此は、従来の解釈では、后となるのだから、小佩を解くのである、といふ風に解せられてゐるが、其考へは逆であつて、小佩を解くから、后になるのである。小佩を解くのは、禊に随伴する必須の条件であつて、禊と小佩を結び堅める役目と、妃であるといふ事とは、何処までも循環的の関係である。而も、第一には、水中から現れて、天子の物忌みの小佩を解く役の人である。
五
此みこともち[#「みこともち」に傍線]の思想が変形すると、今度は「申」更に簡単になると「預」になる。「申」となると、みこともち[#「みこともち」に傍線]よりは、少し意味が広くなつて、摂政の如きものも「政申すつかさ」である。此「申す」と
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