いふのは、やはり唱へ言をする事で、古くは、下から上への、奏上する形式である。謂はゞ「覆奏」が原義に近いのであつた。後に譬ひ、唱へ事は云はないとしても、やはり其処から、出立して来てゐるのである。
そこで「祭」といふ事と「政」との区別は、既に、先師三矢重松先生が殆ど完全な処まで解釈をつけられたが、幾らかまだ、言ひ残された所があると思ふ。此区別を知るには、天皇陛下の食国の政といふ事の、正しい意義を調べるのが、一番の為事であるが、今日では「食す」を「食ふ」の敬語であると見て、食国とは、天皇の召し上り物を出す国、と固定してしか解せられぬが、昔はもつと、自由であつたであらう。併し、食国の政に於ての、最大切な為事は何であるか、と云へば、其は、天つ神から授けられた呪詞を仰せられる事である。まつり[#「まつり」に傍線]の「まつ」といふ事に就ては、安藤正次さんの研究があるが、此にもまだ、其先がある。まつり[#「まつり」に傍線]の語源を「またす」に求めて、またす[#「またす」に傍線]は「祭り出す」の略とするのもよいが、完全ではない。またす[#「またす」に傍線]は、用事に遣ること、即「遣使」の意で、まつる[#「まつる」に傍線]は、命ぜられた事を行ふ意である。端的に云へば、唱へ言をする事である。神功皇后の御歌に、
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この御酒《ミキ》は、我が御酒ならず。くし[#「くし」に傍点]の神 常世にいます、いはたゝす すくな御神《ミカミ》の、豊ほき、ほきもとほし、神ほき ほきくるほし、まつり[#「まつり」に傍線]こし御酒ぞ(仲哀天皇紀)
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とある其まつる[#「まつる」に傍線]は、正確に訳するならば、豊ほきしてまつり来し、神ほきてまつり来し御酒《ミキ》の意で、これ/\の詞を唱へての意である。まつり[#「まつり」に傍線]の最古い言葉は、此であらう。其が段々変化して、遂には「仰せ事の通りに出来ました」と云つて、生産品を奉つて、所謂食国の祭事をするのが、奉る即まつる[#「まつる」に傍線]事になつたのである。即《すなはち》覆奏で、まをす[#「まをす」に傍点]と転じたのだ。まつる[#「まつる」に傍線]が奉るであるといふ事は、既に旧師自身、其処まで解釈をつけてゐられる。つまり、天神の仰せ言を受けて、唱へ言をせられる其行事及び、其唱へ言をしての収獲を神に見せるまでが、所謂祭事であつて、其唱へ言の部分が祭りである、と見れば、食国の政といふ事が、よく訣るのである。即、言ひ換へれば、みこともち[#「みこともち」に傍線]をして来た、其言葉を唱へるのがまつり[#「まつり」に傍線]で、其結果を述べる再度の儀式にも、拡張したものだ。其が中心になつてゐる行事が、祭り事なのである。やまとたけるの[#「やまとたけるの」に傍線]尊の東国へ赴かれた時の「まつりごと」の意味も、此で立派に訣ると思ふ。
ところが、後には、其祭事が段々政務化して来て、神に生産品を捧げる祭りと離れて、唱へ言を省く様になつた。併し、根本は殆ど変らないのであつて、こゝまで来ればみこともち[#「みこともち」に傍線]の思想は、まだ/\展開して行つて、此が逆に、隠居権や下尅上の気質を生んだのだ。
次には、少し方向を変へて見たい。
みこともち[#「みこともち」に傍線]をする人が、其言葉を唱へると、最初に其みこと[#「みこと」に傍線]を発した神と同格になる、と云ふ事を前に云つたが、更に又、其詞を唱へると、時間に於て、最初其が唱へられた時とおなじ「時」となり、空間に於て、最初其が唱へられた処とおなじ「場処」となるのである。つまり、祝詞の神が祝詞を宣べたのは、特に或時・或場処の為に、宣べたものとみられてゐるが、其と別の時・別の場処にてすらも、一たび其祝詞を唱へれば、其処が又直ちに、祝詞の発せられた時及び場処と、おなじ時・処となるとするのである。私は、かういふ風に解釈せねば、神道の上の信仰や、民間伝承の古風は訣らぬと思ふ。
さすがに鈴木重胤翁は、早くから幾分此点に注意を払つてゐる。私が、神道学者の意義に於ける国学者の第一位に置きたいのは、此為である。大和といふ国名が、日本全体を意味する所まで、拡がつた事なども、此意味から、解釈がつきはすまいか。「大倭根子天皇」といふのは、万代不易の御名で、元朝の勅にも、即位式の詔にも、皆此言葉が使はれてゐたが、此は云ふ迄もなく、やまと[#「やまと」に傍線]の国の、最高の神人の意味である。山城根子・浪速根子・大田々根子等の根子と一つである。そして、其範囲の及ぶ所は、最初に大和一国内であつたのが、後には段々拡がつたので、大和朝廷の支配下であるから、日本全国が「やまと」と呼ばれたのではなく、大日本根子天皇としての祝詞の信仰の上から、来てゐるのである。だから、山城に都が遷つても、大和の祝詞を唱へたのであつて、其証拠は、京都近郊の御料地の神を祭る時の祝詞に、大和の六つの御県の、神名の出て来る事でも明らかである。
尚又、其に関聯して起るのは、地名が転移する事である。全国の地名には、平凡に近い程までに、同名が多くある。が尠くとも、其第一原因は、皆祝詞がさうさせたのである。藤原・飛鳥などは、その顕著な一例であらう。その外、葦原[#(ノ)]中国は、九州にもあり、その他、方々にあるが、此は葦原[g(ノ)]中国の祝詞を唱へれば、即そこが、葦原[#(ノ)]中国になるのであるから、少しも不思議はない。察する所、昔はもつと自由に、地名が移動したのであつて、譬へば、天孫降臨を伝へる叙事詩を諷《うた》へば、直ちに其処が、日向の地になつたであらうと思ふ。此は、昔の人の思考の法則から見て、極めて自然な事である。だから、時間なんかは勿論、いつでも超越してゐた。譬へば、神武天皇も、崇神天皇も、共に「肇国《ハツクニ》しろす天皇」である。私は少年時代に、此事を合理的に考へて見て、どうも、命の革る国の俤を仄かに映し見てゐたのだが、此も肇国の唱へ言があつて、その祝詞を唱へられたお方は、皆肇国しろす天皇なのであつた。其が其中でも、特に印象の深いお方だけの、固有名詞のやうになつて残るに至つたのである。
又、続紀を見ると、「すめらが御代々々中今」といふ風な発想語が見えてゐる。此は、今が一番中心の時だと云ふ意味である。即、今の此時間が、一番のほんとうの時間だ、と思つてゐるのである。一方では「皇が御代々々」といふ長い時間を考へながら、しかも呪詞の力で、其長い時間の中でも、今が最ほんとうの時間になる、と信じたのである。
天が下といふ事でも、古くは天皇陛下の在らせられる処は、高天が原の真下に当る、といふ考へから出た語である。つまり、天と地と直通してゐる皇居だけが、天が下であつた。そして此も皆、祝詞の力が、さうさせるのであつた。
更に今一層、不思議な事は、「商返」の観念である。此は、万葉の歌の中に出て来る事で、普通には「あきかへし」と訓まれてゐるが、又「あきかはり」とも訓まれる。
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商変《アキカヘシ》、しろすとのみのりあらばこそ、我が下ごろも、かへし賜《タバ》らめ(万葉集巻十六)
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といふのが其歌で、此意味は古来明瞭にわかつてゐる。此「商変」といふのは、貸借行為の解放であつて、一たび其詔勅が下れば、一切の債権・債務が帳消しとなるのである。そこで、其関係を男女の関係に当てはめて、軽い皮肉を云つたのが此歌である。こゝに「みのり」とあるのは、朝廷からの命令の事で、憲法を「みのり」と訓むのと、意味に於ておなじことであるが、畢竟此も祝詞であつたのが原形だと見てよい。
商変のみのり[#「みのり」に傍線]の思想は、察するところ、春の初めに、天皇陛下が高御座に上つて、初春の頌詞を宣らせられると、又、天地が新になるといふ思想から、出てゐるのであらう。後には此宮廷行事が、御即位の時だけしかなくなつたが、高御座は、天皇陛下が、天神とおなじ資格になられる場所である。一たび其処へお登りになれば、その宣らせ給ふお言葉は、直ちに、天神自身の言葉である。そして其お言葉が宣られることに依つて、すつかり、時間が元へ復るのである。商変のみのり[#「みのり」に傍線]の効力は、畢竟、此と同一観念に基くものである。民間に関した記録が尠い為に、後世、室町時代に現れた徳政の施行が、物珍らしい事の様に、一部では見られてゐるが、祝詞に対する信仰から云へば、此は当然の形であつて、我が国には古くからあつた事なのである。
かういふ風に、祝詞の力一つで、時間も元へ戻るし、又場所も、自由に移動する。即、時間も空間も、祝詞一つで、どうにでもなるのである。
我が国には古く、言霊《コトダマ》の信仰があるが、従来の解釈の様に、断篇的の言葉に言霊が存在する、と見るのは後世的であつて、古くは、言霊を以て、呪詞の中に潜在する精霊である、と解したのである。併し、それとても、太古からあつた信仰ではない。それよりも前に、祝詞には、其言葉を最初に発した、神の力が宿つてゐて、其言葉を唱へる人は、直ちに其神に成る、といふ信仰のあつた為に、祝詞が神聖視されたのである。そして後世には、其事が忘れられて了うた為に、祝詞には言霊が潜在する、と思ふに至つたのである。だから、言霊と言ふ語の解釈も、比較的に、新しい時代の用語例に、あてはまるに過ぎないものだ、と云はねばならぬ。世間、学者の説く所は、先の先があるもので、かう言ふ信仰行事が、演劇・舞踊・声楽化して出来たのが、日本演芸である。だから日本の芸術には、極端に昔を残してゐる。徳川時代になつても、その改められた所は、ほんの局部に過ぎない。そして注意して見ると、到る所に、祝詞の信仰が澱み残つてゐる。
譬へば、此は、圧迫の烈しかつた為でもあるが、文芸作品の上に現れて来る其時代の出来事は、時代も場所も、現実のものとは変更されてゐる。浄瑠璃を見ても、戯作を見てもさうだ。大阪陣や関个原の役の敵身方は、何れも鎌倉方・京方になつてゐる。歌舞妓芝居は固より、洒落本類や粋書本などにも、其影響が見られる。即、其等の本では、江戸の事を鎌倉へ持つて行つてゐる。稲瀬川三囲の段だの、何が谷《ヤツ》などいふ地名を、江戸の町名の替りにした様な例もあれば、又富个岡八幡を、鶴个岡めかしたやうな記載も見られる。
かういふ風に、時間や空間が、徳川文芸の上で無視せられてゐるのは、前にも述べた通り、確かに、幕府の圧迫に原因してゐる、といつてよいが、特にかういふ遁げ路を取つたのには、理由がなくてはならぬ。私は此を以て、祝詞の信仰が、日本人の頭脳に根深く這入つてゐる結果である、と見るのであつて、よし個々の作者には其処までの確かな意識がないとしても、全体として、其処に源を発してゐる事は、争はれないと思ふ。
次に又、みこともち[#「みこともち」に傍線]の思想から演繹されるのは、をち[#「をち」に傍点]の思想である。此は、言ひかへれば、不老不死といふ意味で、呪詞信仰と密接の関係がある。いつでも、元始《ハジメ》に戻る唱へ言をするから、其度毎に、新しい人になつて、永久不滅の命を得るのである。武内宿禰が、三百余歳の寿を保つたといふのも、其である。而も此人は、本宜《ホキ》歌の由来を繋けられてゐる。長生するのも、尤である。其外、民間の伝承では、倭媛命・八百比丘尼・常陸坊海尊などが、何れも皆長生してゐる、とせられてゐる。此も唱へ言と、関聯してゐるのである。
此等の物語では、昔語りをする人は、同時に昔生きて居た人である、といふ事になつてゐるが、後には、其物語の主人公の側近くゐた人だ、といふ事に変つて来てゐる。譬へば、義経に対して常陸坊海尊、曾我兄弟に対して虎御前などは、此類である。併し、あの虎御前といふのは、実は物語中の人物ではなく、虎ごぜ[#「虎ごぜ」に傍線]といふ人が曾我の事を語りあるいた事を意味するのである。虎ごぜ[#「虎ごぜ」に傍線]の「ごぜ」は、瞽女のごぜ[#「ごぜ」に傍線]と同じである。虎といふ名の盲御前である。其が白拍子風の歌を、鼓を打つて語つたのが、段々成長して、遂に、
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