めて見てよい、従来の国神即、護法善神の道としての考へである。
だから私は、神道なる語自身に、仏教神道・陰陽師神道・唱門師神道・修験神道・神事舞太夫・諸国鍵取り衆などの影の、こびりついてゐる事は固より、語原其自身からして、一種の厭ふべき姿の、宿命的につき纏うてゐるのを耻づるのである。だから、今日の神道の内容を盛る語ではない、と信ずるので、近来、尠くとも私だけは、神道といふ語を使はない事にしてゐる。私は此自説を証明する文献上の拠り処を、今までに可なり多く見たが、若し果して、神道の光栄を表する語である事が、学問的に証明せられるやうならば、いつでも、真に喜び勇んで、元に引き戻す覚悟である。しかし今日の処では、神道それ自身の生んだ、光明に充ちた語である、とは思ふ事が出来ない。
記・紀若しくは、祝詞などを見ると、中には、古語・神語などいふべき古い語が、随分ある。其等の言葉は、不思議にも、大抵此を現代語に書き改めることの出来る程に、研究は積まれてゐるが、私の経験では、真に其が不思議である。私の今まで最苦しんだのは、祝詞であつた。既に、今までに、半分位、二度までも、口訳文を書き直して見たが、其結果、祝
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