す。だから、国語教育の上に大事のめど[#「めど」に傍点]とせられねばならぬ箇条が顧みられないでゐるのです。

     三

国語教育者の口から聞けさうな事で、一度も聞いた事のないのは、「造語能力」に関した問題です。我々の責任の属してゐる明治以後の社会が果してどれほど自由な造語、発想法を発明しましたか。私どもの祖先のどの時代に対しても、実際恥がましく思はれるのは、此点です。明治大正の学者ぶり、高尚がる風潮が、どんなに軽便主義と握手して、造語、発想能力を鈍らした事でせう。陸海軍の人々が、生硬な音覚を喜ぶ様なのは問題外です。世間普通の人々が、皆単綴語の漢字をくつつけ合せて、言語に対する生みの苦しみをしないのはどうしたものでせう。造語能力・発想能力の後ずさりした今の世間を、国語教育者は何と眺めて居るのでせう。学術語ならば、ぐりいく[#「ぐりいく」に傍線]、らてん[#「らてん」に傍線]の語尾を曲げる様に、漢字の継ぎ合せでも間にあはせられませう。我々の感情は、思想は、そんな早幕の借り物手段で、ぴつたりした落ちつきを得るものでせうか。言語と言ふものは、形が出来れば、自然に内容の整つて来るといふ病処のあるものです。だから、どんな所謂ちよくな[#「ちよくな」に傍点]語にでも、相当な中身は段々出来て来ます。私どもは其に満足してゐる様な姿なのです。本来が本来だけに、浅く脆いさく/\した語ばかりを、明治大正の私どもは造りました。どつしりした[#「どつしりした」に傍点]語、しなやかな[#「しなやかな」に傍点]言ひ表し方、品のよい言語情調などが、どこにありませう。新聞を見ても、雑誌を見ても、私どもの語は浅ましく陳列せられて居ります。学校にも、街頭にも、電車の中にも、傍田舎《カタヰナカ》の寄り合ひにも、使はれてゐる語は、皆ぎしやばつた[#「ぎしやばつた」に傍点]形式の、空疎な内容のものです。造語の責任感の乏しい新聞記者が、やたらとむづかしく[#「むづかしく」に傍点]て、げび[#「げび」に傍点]て、とげ/\しい語を製造します。役人は役人で、まだ漢語を使ふ事が官吏の気品を示す所以だと言つた、妙な階級意識を失はないで居ます。其為、郡・村・大字の爺・婆・子どもまでが、ぎごちない[#「ぎごちない」に傍点]、徒らにひねくれた音覚を持つ語を喜んで使ひます。
「べうほ[#「べうほ」に傍線](苗圃)をうくわい[
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