、少くとも宗教に似た心に立つた場合に限つて、訓育も智育も理想的に現れるのだと考へます。
この情熱がなくては、教授法も、教育学も、意味が失はれてまゐりませう。生徒、児童の個性を開発《カイホツ》するものは、生徒児童の個性ではなくて、教育者の個性でなければなりません。
たとへば、優れた芸術家が、一人でも先輩或は、周囲の影響を受けないで、偉大な個性に目醒めたといふ例がありませうか。教育は畢竟、個性を芽生えさせる所に意味がある筈です。併しその上に、その個性に、ある進路を与へることがなくては、教育者自身の存在は意味がなくなります。強い言ひ表し方をすれば、教育は、個性を以つて個性を征服するところに、真の意義があるのです。謂はゞ、個性の戦争であるのです。
世の中に固定を恐るべきものは、教育家が第一であると致さねばなりません。一歩停まれば、被教育者から殺されるものとの覚悟がいります。だから、常に足を止めることが出来ないのです。この間の消息は、合同教育、連帯訓化の今の世では、忘れられてゐるのです。昔の塾教育に比べて、今の学校教育の呪はれがちなのは、教育者の人物に由ることは勿論ですが、教育者の責任の軽くなつたのにも、原因はあります。
神授の物を授けてはならないと言つて、旧信仰の忘れ形身の様な個性尊重説の下に動きのとれなくなつてゐる教育家は、実は自身の個性に信頼が出来ないのです。自身侮り、卑下して居て、個性の戦争などに思ひの及ぶはずもありません。教育は職業になりました。合同作業になりました。被教育者の個性の征服は勿論、教育者同士の間にも、もつと妥協態度を棄てる必要がありはしませんか。お互の教育効果を減殺する事を気にするより先に、影響の強さを競ふつもりになつて欲しいものです。競争の成心なく、自然に揉み合ひ、凌ぎあひの行はれるのを理想とします。
国語教育を受け持つ者が、何の為に英語や、数学や博物の教師と協調して行く必要がありませう。思ふ存分に力を伸べてこそ、真の効果は生じるのです。被教育者の能力は、教育者の空想する程貧弱なものではありません。各学科その効果を争ふ必要があります。国語科の先生は、常に、不生産的な学科だと言つた自覚に尻ごみして、けなされ勝ちになつて居ます。此は教育の目的を、功利的に考へてゐるからの自卑です。どうもやつぱり、読み書きに国語教育の本旨があると考へる人が多い様なのは困りま
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