ある。それと共に、神との相嘗《アヒナメ》に供へられた御贄の品が、氏人の一つの根から岐れた物で、神にも近いものとする考へのあつた事は、述べて置いた。若しかう言ふ推定を進めて行く事が構はないなら、植物は姑く措いて、動物の方は一つの大胆な小結論に届く。
記・紀からよく引かれる、猿の声を伊勢の皇大神の使ひと考へ、白猪を胆吹山神の使ひと見たと言ふ伝へは、果して近代の使はしめ[#「使はしめ」に傍線]と同じ内容を持つて居るか、どうか疑はしい。併し、力の優れたものに役せられる精霊が、さうした姿なり、声を以て、神の命じた用をたしに来る、とした考へのあつた事だけは訣る。
使はしめ[#「使はしめ」に傍線]の考へは、此と離して見ても、古くからある。「手代《テシロ》」と言ふのも、奈良時代に既に見えた語で、神の手其物として働くものである。此為事が人間に移つて、手代部なる部曲さへ出来た。武家時代にはみさき[#「みさき」に傍線]と言うた様だ。神の前駆者《ミサキ》の意であらう。神慮に随ふ部分は、役霊としての要素を持つて居るが、其成立には、尚一つ違うた側がある。
犠牲をいけにへ[#「いけにへ」に傍線]と訓むのは、一部分当つて、大体に於て外れてゐる。にへ[#「にへ」に傍線]は、神及び神に近い人の喰ふ、調理した喰べ物である。いけ[#「いけ」に傍線]は活け飼ひする意である。何時でも、神の贄に供へる事の出来る様に飼うて居る動物を言ふ。同時に、死物の様な植物性の贄と、区別する語なのである。我々の国の信仰の溯れる限界は、こゝまでゞある。併し尚一歩を進めるだけの材料はある。供へ物なる動物・植物の容れ物は、どうやら、其中に、神も這入られた神座の変化である様に見える。
神と、其祭りの為の「生《イ》け贄《ニヘ》」として飼はれてゐる動物と、氏人と、此三つの対立の中、生け贄になる動物を、軽く見てはならない。其は、ある時は神とも考へられ、又ある時は、神の使はしめ[#「使はしめ」に傍線]とも考へられて来たのである。
遠慮のない話をすれば、属性の純化せなかつた時代の神は、犠牲料《イケニヘ》と一つであつた様に考へられる。さうして次の時期には、其神聖な動物は、一段地位を下げられて、神の役獣と言ふ風に、役霊の考への影響をとり込んで来る。さうした上で、一方へは、使はしめ[#「使はしめ」に傍線]として現れ、一方へは神だけの喰ひ物と言ふ様に岐れて行く。此次に出て来るのが、前に言うた、神の呪ひを受けた物、と言ふ考へ方である。
稲荷の狐は、南方熊楠翁の解説によれば、托枳尼修法の対象なる托枳尼《ダキニ》と言ふ狼の様な獣の、曲解せられた物だと言ふ事である。其は、外来のものであるが、固有の使はしめ[#「使はしめ」に傍線]と思はれて居るものにも、此類の役獣がありさうな暗示にはなる。
山王の猿は「手白《テシロ》の猿」と称せられた様である。此は使はしめ[#「使はしめ」に傍線]の意義を、正しく見せてはゐる。けれども、山王権現に対するおほやまくひ[#「おほやまくひ」に傍線]の神の本体が、もつとはつきりせぬ間は、生得の使はしめ[#「使はしめ」に傍線]かどうかは、疑ひの余地がある。鳩・鴉・鷺・鼠・狼・鹿・猪・蜈蚣・亀・鰻と言ふ風に、社々の神の使はしめ[#「使はしめ」に傍線]の、大体きまつて居るのも、犠牲料の動物の側から見れば、説明がつく。

     一一

ところが一方又、地主神を使はしめ[#「使はしめ」に傍線]或は、役霊と見る様な風も、仏教が神道を異教視して征服に努めた時代から現れて来た。さうなると、後から移り来た神仏に圧倒せられて、解釈の進んだ世に、神としての地位は、解釈だけは進む事なく、精霊同時に、化け物としてのとり扱ひを受けねばならぬ事になつた。
以前、坪内博士も脚色せられた葛城《カツラギ》の神ひとことぬし[#「ひとことぬし」に傍線]の如きは、猛々しい雄略天皇をさへ脅した神だのに、役《エン》[#(ノ)]行者《ギヤウジヤ》にはさん/″\な目にあはされた事になつて居る。逍遙先生は更にぐつと位置をひきさげて「真夏の夜の夢」などに出て来る様な、化け物にして了はれた。
おなじ役[#(ノ)]行者に役せられた大峰山下の前鬼《ゼンキ》・後鬼《ゴキ》と言ふ鬼も、やつぱり、吉野山中の神であつたもの、と思はれる。前鬼・後鬼共に子孫は人間として、其名の村を構へて居る。仏者の側で似た例をあげれば、叡山に対しては、八瀬《ヤセ》の村がある。此村の祖先も亦「我がたつ杣」の始めに、伝教大師に使はれた鬼の後だと言ふ。
一体おに[#「おに」に傍線]と言ふ語は、いろ/\な説明が、いろ/\な人で試みられたけれども、得心のゆく考へはない。今勢力を持つて居る「陰」「隠」などの転音だとする、漢音語原説は、とりわけこなれない考へである。聖徳太子の母君の名を、神隈《カミクマ》とも鬼隈とも伝へて居る。漢字としての意義は近くとも、国訓の上には、鬼をかみ[#「かみ」に傍線]とした例はない。もの[#「もの」に傍線]とかおに[#「おに」に傍線]とかにきまつてゐる。して見れば、此は二様にお名を言うた、と見る外はない。此名は、地名から出たものなるは確かである。其地は、畏るべきところとして、半固有名詞風におにくま[#「おにくま」に傍線]ともかみくま[#「かみくま」に傍線]とも言うて居たのであらう。二つの語の境界の、はつきりしなかつた時代もあつた事を示してゐるのである。強ひてくぎりをつければ、おに[#「おに」に傍線]の方は、祀られて居ない精霊らしく思はれる点が多い。
八瀬の村は、比叡の地主とも見るべき神の子孫と考へたもので、其祖先を鬼としたものであらう。この村は延暦寺に対して、寺奴とも言ふべき関係を続けて居た。大寺の奴隷の部落を、童子村と言ふ。寺役に使はれる場合、村人を童子と言ふからである。八幡の神宮寺などにも、童子村の大きいのがあつた。開山の法力に屈服して、駆使せられたおに[#「おに」に傍線]の子孫だと言はぬ童子村にも、高僧の手で使はしめ[#「使はしめ」に傍線]の如くせられた地主神の後と言ふ考へはあつたらうと思はれる。童子が仏法の為に、力役に任ずる奴隷の意味に使はれたところから、殿上人の法会に立ちはたらく時の名を「堂童子《ダウドウジ》」と言うた。童子と言ふのは、寺奴の頭のかつかうから出た称へである。ばらけ髪をわらは[#「わらは」に傍線]と言ひ、髪をはらゝにしてゐる年頃の子どもを、髪の形からわらは[#「わらは」に傍線]と言うたに準じて考へると、寺奴の髪をあげずにばらかして、所謂「大童」と言つた髪なりでゐたからである。柳田国男先生の考へられた「禿《カブロ》」とも「毛房主《ケバウズ》」とも言ふ、得度せぬ半僧生活を営んだ者も、元は寺奴から出たのである。
葛の葉の生んだ子を「童子」「童子丸」と言うたのも、こゝに根拠があり相に見える。
鬼は、仏家の側ばかりで言ふのではなく、社々にもある事である。村里近い外山などに住み残つて居た山人を、我々の祖先は祭りに参加させた。さうして其をも、おに[#「おに」に傍線]と言うたらしい。生蛮人を畏き神と称した例はあるから、神とおに[#「おに」に傍線]との区劃がはつきりすれば、かう言ふ荒ぶる神は、やはり鬼の部に這入つて来る事になつたのであらう。
江戸の大奥で、毒見番を「鬼役」と言うたのも、昔の手代部《テシロベ》の筋を引いたらしい為事である上に、響きこそ恐しけれ、名にまで、其俤を留めてゐるのは懐しい。
社についてゐた神の奴は、中古以来「神人《ジンニン》」と称へてゐる。かむづこ[#「かむづこ」に傍線]と言ふ語も、後には内容が改つてゐるが、元はやはり字義どほりの神奴《カミツコ》であらう。さつきも話に出た、伊勢の奄芸郡の人が、祭りに参加するなど言ふことも、三輪の神人が山川隔てた北伊勢に居た事を見せてゐるのである。かうした村を、やはり単に「村《ムラ》」或は神人村と言うて居た。
今では大阪市になつた天王寺の西隣の今宮村は、氏神としては広田の社を祀りながら、京の八坂の社に深い関係があつた。祇園の神輿は、此村人が行かぬと動かぬと誇つて、祭りには京へ上り/\して居た。而も此村は、四天王寺とも特別な交渉を持つてゐた様である。幸な事には、今宮の村は、ほかの村から特殊な扱ひは受けて居なかつた。が、大抵かうした神人村は、後世特殊な待遇を他の村々から受けることになつた。近世の考へ方からすれば、神事に特殊部落が与ると言ふのは、勿体ない事の様に見える。成立からして社寺に縁の深い村が、奴隷だといふ事以外に、今一つの余儀ない理由から、卑しめられる様になつて行つた。
等しく奴隷と言うても、家についた者の中、家人など言ふ類は、武家の世には御家人《ゴケニン》となり、侍となつて、良民の上に位どられる様になつたが、社の奴隷は、謂はれない侮辱を忍ばねばならなくなつた。
此等の村人は、みさき[#「みさき」に傍線]・使はしめ[#「使はしめ」に傍線]の類を、自由に駆使する事の出来るものと、世間からは見られて居た。だから、其社の保護に縋つてばかり居られぬ世になると、手職もした様だが、呪術を行うて暮しを立てゝ行つた。又其事へて居る神の功徳を言ひ立てに、諸国を廻る様になつた。其村人の特別な能力が、他の村人からはこはがられる。呪咀を事とすると考へられる様になつて、恐れが段々忌み嫌ひに移り、長い間には卑しみと変つて行く。
神人の本村は固より、漂泊した村人が旅先で定住して、構へた家なり村なりが、やつぱりさうした毛嫌ひを受ける。「おさき持ち」「犬神筋」「人狐《ニンコ》」など言ふ家筋として、人交りのならぬものとなつたのも多い。
神人の念ずる神は、不思議にも、所属の社や寺の本殿・本堂に祀るところの本筋の神仏でない場合が多い様である。漂泊布教者は、大方は、神奴・寺奴出身の下級の人々であるが、其本所の本筋の神仏を持つて歩いたものと、さうでないものとがあつた様である。神人・童子以外にも、いろ/\な意味の半俗の宗教家が流離して遂には偉大な新安心を流布する事にもなつた。其はおもに、得度する事の出来なかつた寺奴の側で、神人の末は、多く浮ぶ瀬がなかつた様である。
高野山往生院谷の萱堂《カヤダウ》の聖は、真言の本山には、寄生物とも言ふべき念仏の徒であつた。これも元は、紀州由良[#(ノ)]浦の海人から出た寺奴であらうと思はれる。祇園の神人であつた摂津今宮村の神は「広田」である事は前に述べた。三輪の神人なる奄芸の里人の斎いた稲生《イナフ》の古社も、三輪明神には、関係がない様である。此事に就ては、いろ/\な事が考へられる。第一は、何の血縁もない奴隷に、家の神を拝ませる事をせなかつたからは、自由のなかつた神奴も、信仰は、古くから強ひられずに来たものと考へられる。第二は、神奴をおに[#「おに」に傍線]の後と見る事が出来れば、祖先が信仰せぬ神の庭に臨んだ習慣を其儘、祭りの人数には備つても、祀る所は其祖神なるおに[#「おに」に傍線]であつたであらう。第三は使はしめ[#「使はしめ」に傍線]を、神奴の祖先と考へたかも知れない、と言ふ点である。神の内容が分解して、手代《テシロ》なる「神使」の属性が游離して来ると、神・神主の間に血族関係を考へる習はしを推し及して、神使ひの血筋としての神奴と言ふ考へ方が、出て来る事もありさうだ。さうすると、元来神奴が持ち伝へて来た信仰の対象の上に、使はしめ[#「使はしめ」に傍線]の姿が重つて来る訣になる。かう言ふ風に想像して見ると、神人が使はしめ[#「使はしめ」に傍線]を駆使する様になる道筋も、わかる様である。何にせよ、神人・童子共に、普通と違うた祖先を持つて居るとせられた事だけは、事実らしい。さう言ふところへわり込み易いのは、動物祖先の考へである。

     一二

安名と葛の葉の住んで、童子を育てたと言ふ安倍野の村は、昔からの熊野海道で、天王寺と住吉との間にあつて、天王寺の方へよつた村である。其開発の年代は知れない。謡曲「松虫」に「草茫々たる安倍野の塚に」とあるが、さうした原中にも、熊野王子の社があつて熊野の遥拝処にな
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