つて居た事は、平安朝末までは溯られる様である。此社から、更に幾つかの王子を過ぎて、信太に行くと、こゝにも篠田王子の社があつた。宴曲の「熊野参詣」と言ふ道行きぶり[#「道行きぶり」に傍線]に、道順が手にとる様に出てゐる。安倍野と信太との交渉は此位しか知れないのだから、今の処は必然の関係が見出されさうもない。
童子丸とか、安倍[#(ノ)]童子など言ふ名は、特殊な感じを含んで居る。作者の投げやりにつけたものと思へるかも知れないが、さうではない。類例のある名なのである。平安朝の中頃からは、ちよく/\見えて、頼光に讐をしかけた鬼童丸、西宮記には、秦[#(ノ)]犬童子と言ふ強盗の名がある。其同類に、藤原[#(ノ)]童子丸と言ふのも見える事は、南方翁が指摘せられた。
だが、角太夫の信太妻以来、歌舞妓唄にも謡はれた葛の葉道行きの文句には、「安倍の童子が母上は」とある。此辺の詞は、説経節伝来のものだらうと感じられるものである。「安倍[#(ノ)]童子」と言ふ名は、古くから耳に熟して来た為に、固有名詞らしい感じの薄い語ながら、ある落ちついた味はあつたものであらう。必、久しい間くり返されたもの、と思はれる親しさがある。
たゞ、安倍氏の子ども、安倍氏(晴明)になる所の子ども、と言ふだけの事ではあるまい。私は、此安倍野の原中に、村を構へた寺奴の一群れがあつて、近処の大寺に属して居たものでないかと見当をつけて居る。其寺は、大方四天王寺であらうが、ひよつとすれば、住吉の神宮寺かも知れない。何にしても、其村人を「安倍野童子」と言ひ馴れて、当時の人の耳に親しいものであつたところから、「信太妻」の第一作と思はれる語り物を語り出した人の口に乗つて、出て来た名ではなからうか。単に其ばかりでなく、ほかの神人・童子村にもある動物祖先の伝説が、此村にもあつて、村人を狐の子孫として居たのではあるまいか。
仮りに話の辻褄をあはせてみると「安倍野童子」たちに伝へがあつて、自分たちの村からは、陰陽博士の安倍晴明が出てゐる。晴明の母は信太から来た狐の化生であつた。だから我々は狐の子孫になる。世間で「安倍野童子」と自分らを呼ぶのは、晴明の童名からとつたものだ、と言ふ風に信ぜられてゐた。まづかう考へて見ると、ある点までは纏りがつく。が、事実はそんなに、整頓せられたものではあるまい。
説経節は元来「讃仏乗」の理想から、天竺・震旦・日本の伝説に、方便の脚色を加へて、経典の衍義を試みたところから出たものであらうが、仏教声楽で練り上げた節まはしで、聴問の衆の心を惹く方に傾いて行つて、段々、布教の方便を離れて、生活の方便に移り、更に芸術化に向うたものと思はれる。「三宝絵詞」や「今昔物語」は或は其種本ではあるまいかとも考へられ、王朝末には、説経師の為事が、稍効果を表して来たのではなからうか。さうして、段々身につまされる様なものにかはつて来て、来世安楽を願はせる為に、現世の苦悩を嘗め尽した人の物語を主とする事になつて、「本地物」が生れて来たのではあるまいか。此芽生えは、既に武家の始めにあつたらしい。
が、社寺の保護の下に、大した革命の行はれることなく、長日月を経るを例とした我が国の芸術の一つとして、やはり保守一点ばりでとほして来たものと思はれる。其が、三味線の舶来以後、俄かに歩を早めて進んだ。そして、説経太夫が座を持つて、小屋の中で語る様になるまでには、傘の柄を扇拍子で叩いた門端芸人としての、長い歴史があつたであらう。
説経には、新古二様の台本があつたらう、と言ふ事は前に言うた。新しい台本の出来たのは、それが正本として刊行せられた時から、さのみ久しい前ではなからう。新しい台本の出来る前に、古い台本を使うた時期が、かなり長かつたのであらう。簡単な古い説経に、潤色を施して出した新しい正本では、古くから世間に耳馴れた古説経持ち越しの知識は、其儘にして居た事と思はれる。だから、今ある説経の中には、聴衆の知識を予期してゐる所から出た省略やら、最初の作物なら書き落すはずのない失念などが、散らばつて見える。角太夫の「信太妻」にさへ、そんな処がある。
「信太妻」は、どの社寺の由来・本地・霊験を語るのか明らかでない。強ひて言へば、信太[#(ノ)]森の聖《ヒジリ》神社か、その末社らしい葛の葉社の由来から生れて、狐が畜生を解脱して、神に転生する事を説いた本地物だつたのではなからうか。此を節づけて語りはじめたのは、誰であらう。「安倍野童子」村に就ての想像が、幸い外れて居なかつたら、此村の童子であつて、漂泊布教して歩いた者の口に生れた語り物が、説経に採り入れられて、「安倍野童子」の物語として伝誦され、遂には主要人物の名となつて了ふ様になつたものと、考へる事が出来る。
前に言うた高野の「萱堂《カヤダウ》の聖《ヒジリ》」が語り出したと想像せられる石童丸の語り物が、説経にとり入れられる様になつた。而も石童の父を苅萱と言ふのは、謡曲で見ると「苅萱の聖」とある。さすれば、萱堂の聖の物語が、いつか苅萱の聖の物語と称へられる様になり、作中の人物の名ともなつたのであらう。
此も五説経の一つである「しんとく丸(又、俊徳丸)」は、伝来の古いものと思はれる。謡曲には、弱法師《ヨロボフシ》と言ふ表題になつてゐる。盲目《マウモク》の乞食になつた俊徳丸が、よろ/\として居るところから、人が渾名をつけたといふことになつてゐる。併し故吉田東伍博士は、弱法師《ヨロボフシ》と言ふ語と、太平記の高時の田楽の条に見えた「天王寺の妖霊星を見ずや」と言ふ唄の妖霊星とは、関係があらうと言はれた事がある。其考へをひろげると、霊はらう[#「らう」に傍点]とも発音する字だから、えうれいぼし[#「えうれいぼし」に傍線]でなく、えうらうぼし[#「えうらうぼし」に傍線][#「えう」に「ヨウ」の注記]である。当時の人が、凶兆らしく感じた為に、不思議な字面を択んだものと見える。
唄の意は「今日天王寺に行はれるよろばうし[#「よろばうし」に傍線]の舞を見ようぢやないか」「天王寺の名高いよろばうし[#「よろばうし」に傍線]の舞を見た事がないのか。話せない」など、言ふ事であらう。「ぼし」は疑ひなく拍子《バウシ》である。白拍子の、拍子と一つである。舞を伴ふ謡ひ物の名であつたに違ひない。此も亦白拍子に伝統のあつた天王寺に「よろ拍子」の一曲として伝つた一つの語り物で、天王寺の霊験譚であつたのが、いつの程にか、主人公の名となり、而もよろ/\として弱げに見える法師と言ふ風にも、直観せられる様になつたのである。
柳田先生は、おなじ五説経の「山椒太夫《サンセウダイフ》」を算所《サンシヨ》と言ふ特殊部落の芸人の語り出したもの、としてゐられる。
かう言ふ事の行はれるのは、書き物の台本によらず、口の上に久しく謡ひ伝へられて来た事を示してゐるのである。
はじめて語り出し、其を謡ふ事を常習としてゐた人々の仲間の名称は、其語り物の仮りの表題から更に、作中に入りこんで人物の名となり易いのである。
「帰らうやれ、元の古巣へ」と言ふのは、葛の葉物には、つき物の小唄の文句である。こんなところにも「妣が国」の俤は残つて居た。
信太妻と言ふ表題も、実は、いつからはじまつたものとも知れぬ。本文には見えぬ語なのである。此にも由来はありさうである。其上、此名が、異族の村から来た妻、と言ふ意を含んで居る様なのもおもしろいと思ふ。
底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
1995(平成7)年3月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 民俗学篇第一」大岡山書店
1929(昭和4)年4月10日発行
初出:「三田評論 第三二〇・三二二・三二三号」
1924(大正13)年4月6月7月
※底本の題名の下に書かれている「大正十三年四・六・七月「三田評論」第三二〇・三二二・三二三号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※踊り字(/\、/″\)の誤用は底本の通りとしました。
※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き右寄せになっています。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2004年1月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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