ると言ふ様な点は、他人の空似と見る方が、まづ安全であらう。が、出雲が全然因果物語の写本を見なかつたなど言ふ事は、彼が乱読癖のあつた人だつた事を見れば、出雲自身だつて言へる筈はないと思ふ。一番安心な有可能性《アルベカヽリ》の考へ方は、室町から引きつぎの、さうした陰惨な空気が、まだ瀰漫して居た時代だから、よし因果物語からでなくとも、口からも、目からも、豊富に注入せられて居た事と見ることだ。
其は其として、子供の無邪気な驚愕が、慈母の破滅を導くと言ふ形の方が、古くて作意を交へないものに違ひない。

     三

葛の葉以外の狐は、われ/\の祖先と毫も交渉はなかつたか。此方から探りを入れて見よう。やはり劇関係の物から言ふと、河竹黙阿弥の脚本の「女化稲荷《ヲナバケイナリ》月朧夜」と言ふのは、牛久沼の辺、水戸海道の途中に在る女化原の伝説を為組んだもので、筋の立て方は「大内鑑」に囚はれ過ぎて居る。其事実は、葛の葉が義太夫の正本に纏まつてから後に、起つた事柄として伝へられて居る。尠くとも、徳川末期の人々からは、極《ごく》の最近に起つた実話と信じられて居たのである。其実録の方では、常陸稲敷郡の或村の百姓忠七が、江戸からの帰り途、女化原を通つて、一人の女に逢うた。其女を家に連れ戻つて、妻とした処、男二人、女一人の子を産んだ。ある時、添へ乳して寝た中に、尻尾が出た。子供が騒ぐので、為方なく、一首の歌を残して逃げ去つた。
人間に近い生活をしたものとして、最後の抒情詩を記念に止めさすのも、吾々の民族心理の現れだなどゝ、簡単な心理説明では説明はつかない。人間でない性質のある者まで、歌を読み残して居るのである。
女化原に就ては、今一つ本家争ひをする者がある。常陸栗山の栗山(蜀山は大徳と言ふ)覚左衛門、行き暮れた女を泊めてやつた後(蜀山は行き逢うた女といふ)夫婦暮しをして居る中に、同じ手順で化けの皮を露して、子を棄てゝ逃げ還つた。此も歌を書き残した事になつて居る。此方では、女化原と言はず、
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みどり子が 跡を尋ねば、うなばかゞ原に泣く/\臥す と答へよ
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と原の名を読み込んで居る。蜀山人は、其家の主人代々顔長く口尖つて居ると書いてゐる。此話が記録せられる時分には、地名は既に女化原となつて居たのに、歌だけは、昔の儘に固定して居たと見える。百姓が耳から耳
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