たと想像せられる石童丸の語り物が、説経にとり入れられる様になつた。而も石童の父を苅萱と言ふのは、謡曲で見ると「苅萱の聖」とある。さすれば、萱堂の聖の物語が、いつか苅萱の聖の物語と称へられる様になり、作中の人物の名ともなつたのであらう。
此も五説経の一つである「しんとく丸(又、俊徳丸)」は、伝来の古いものと思はれる。謡曲には、弱法師《ヨロボフシ》と言ふ表題になつてゐる。盲目《マウモク》の乞食になつた俊徳丸が、よろ/\として居るところから、人が渾名をつけたといふことになつてゐる。併し故吉田東伍博士は、弱法師《ヨロボフシ》と言ふ語と、太平記の高時の田楽の条に見えた「天王寺の妖霊星を見ずや」と言ふ唄の妖霊星とは、関係があらうと言はれた事がある。其考へをひろげると、霊はらう[#「らう」に傍点]とも発音する字だから、えうれいぼし[#「えうれいぼし」に傍線]でなく、えうらうぼし[#「えうらうぼし」に傍線][#「えう」に「ヨウ」の注記]である。当時の人が、凶兆らしく感じた為に、不思議な字面を択んだものと見える。
唄の意は「今日天王寺に行はれるよろばうし[#「よろばうし」に傍線]の舞を見ようぢやないか」「天王寺の名高いよろばうし[#「よろばうし」に傍線]の舞を見た事がないのか。話せない」など、言ふ事であらう。「ぼし」は疑ひなく拍子《バウシ》である。白拍子の、拍子と一つである。舞を伴ふ謡ひ物の名であつたに違ひない。此も亦白拍子に伝統のあつた天王寺に「よろ拍子」の一曲として伝つた一つの語り物で、天王寺の霊験譚であつたのが、いつの程にか、主人公の名となり、而もよろ/\として弱げに見える法師と言ふ風にも、直観せられる様になつたのである。
柳田先生は、おなじ五説経の「山椒太夫《サンセウダイフ》」を算所《サンシヨ》と言ふ特殊部落の芸人の語り出したもの、としてゐられる。
かう言ふ事の行はれるのは、書き物の台本によらず、口の上に久しく謡ひ伝へられて来た事を示してゐるのである。
はじめて語り出し、其を謡ふ事を常習としてゐた人々の仲間の名称は、其語り物の仮りの表題から更に、作中に入りこんで人物の名となり易いのである。
「帰らうやれ、元の古巣へ」と言ふのは、葛の葉物には、つき物の小唄の文句である。こんなところにも「妣が国」の俤は残つて居た。
信太妻と言ふ表題も、実は、いつからはじまつたものとも知れぬ。本文
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