・日本の伝説に、方便の脚色を加へて、経典の衍義を試みたところから出たものであらうが、仏教声楽で練り上げた節まはしで、聴問の衆の心を惹く方に傾いて行つて、段々、布教の方便を離れて、生活の方便に移り、更に芸術化に向うたものと思はれる。「三宝絵詞」や「今昔物語」は或は其種本ではあるまいかとも考へられ、王朝末には、説経師の為事が、稍効果を表して来たのではなからうか。さうして、段々身につまされる様なものにかはつて来て、来世安楽を願はせる為に、現世の苦悩を嘗め尽した人の物語を主とする事になつて、「本地物」が生れて来たのではあるまいか。此芽生えは、既に武家の始めにあつたらしい。
が、社寺の保護の下に、大した革命の行はれることなく、長日月を経るを例とした我が国の芸術の一つとして、やはり保守一点ばりでとほして来たものと思はれる。其が、三味線の舶来以後、俄かに歩を早めて進んだ。そして、説経太夫が座を持つて、小屋の中で語る様になるまでには、傘の柄を扇拍子で叩いた門端芸人としての、長い歴史があつたであらう。
説経には、新古二様の台本があつたらう、と言ふ事は前に言うた。新しい台本の出来たのは、それが正本として刊行せられた時から、さのみ久しい前ではなからう。新しい台本の出来る前に、古い台本を使うた時期が、かなり長かつたのであらう。簡単な古い説経に、潤色を施して出した新しい正本では、古くから世間に耳馴れた古説経持ち越しの知識は、其儘にして居た事と思はれる。だから、今ある説経の中には、聴衆の知識を予期してゐる所から出た省略やら、最初の作物なら書き落すはずのない失念などが、散らばつて見える。角太夫の「信太妻」にさへ、そんな処がある。
「信太妻」は、どの社寺の由来・本地・霊験を語るのか明らかでない。強ひて言へば、信太[#(ノ)]森の聖《ヒジリ》神社か、その末社らしい葛の葉社の由来から生れて、狐が畜生を解脱して、神に転生する事を説いた本地物だつたのではなからうか。此を節づけて語りはじめたのは、誰であらう。「安倍野童子」村に就ての想像が、幸い外れて居なかつたら、此村の童子であつて、漂泊布教して歩いた者の口に生れた語り物が、説経に採り入れられて、「安倍野童子」の物語として伝誦され、遂には主要人物の名となつて了ふ様になつたものと、考へる事が出来る。
前に言うた高野の「萱堂《カヤダウ》の聖《ヒジリ》」が語り出し
前へ 次へ
全29ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング