ば、大蛇になつて水に飛び入つたなどゝ言ふ類である。
話をはしよる為に申す。私は、大正九年の春の国学院雑誌に「妣《ハヽ》が国へ・常世《トコヨ》へ」と言ふ小論文を書いた。其考へ方は、今からは恥しい程合理式な態度であつた。其翌年かに、鳥居龍蔵博士が「東亜の光」に出された「妣の国」と言ふ論文と、併せて読んで頂く事をお願ひして置いて、前の論文の間違うたところだけを、訂正の積りで書く。
「妣《ハヽ》が国」と言ふ語はすさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]といなひの命[#「いなひの命」に傍線]との身の上に絡んで、伝はつて居る。すさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]は亡母(即、妣)いざなみの命[#「いざなみの命」に傍線]の居られる根《ネ》の国に憧れて、妣が国に行きたいと泣いたとある。いなひの命[#「いなひの命」に傍線]は熊野の海で難船に遭うて、妣が国へ行くと言うて、海に這入つた。此母は、海祇《ワタツミ》の娘たまより媛[#「たまより媛」に傍線]をさすのは、勿論である。うつかり見れば、其時々の偶発語とも見えよう。併し此は、われ/\の祖先に共通であつた歴史的の哀愁が、語部《カタリベ》の口拍子に乗つて、時久しく又、度々くり返されねばならぬ事情があつたのであらう。
此常套語を、合理式に又、無反省に用ゐて来たのを、記・紀は、其儘書き留めたのである。以前の考へでは、故土を離れて、移住に移住を重ねて行つた人々の団体では、母系組織の下に人となつた生れの国を、憶ひ出し/\した其悲しみを、此語に籠めて表したのが、いつか内容を換へる事になつたのだと説いたと思ふ。併しかうした考へは、当時その方に向いて居た世間の母系論にかぶれて、知らず/\に出て来たのであつたらう。やはり、我々の歴史以前の祖先は、物心つくかつかぬかの時分に、母に別れねばならぬ訣があつたのである。
母を表す筈のおも[#「おも」に傍線]なる語が、多くは乳母の意に使はれる理由も、こゝに在るのかと思ふ。とにもかくにも、生みの子を捐てゝ帰つた母を慕ふ心が「妣の国」と言ふ陰影深い語となつて現れたのであらう。
脇道に逸れた話が、葛の葉の子に別れて還る話の組み立ての説明に役だつたのはよかつた。子どもと村の秘密行事との関係、神託と子どもとの交渉は、前に既に書いたが、其上に、子を生む事が成婚の理由でもあり、同時に離縁の原因にもなつた古代の母たちは、其上に夫と違
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