ぎ留めて、流れて了はぬ工夫をせられた。八本の柱を樹てゝ、其に綱で結んで置いたのである。其柱は折れ残つて、今も岩となつてゐる。折《ヲ》れ柱《バシラ》と言ふのが、其である。いまだに、八本共に揃うてゐる。渡良の大島・渡良の神瀬《カウゼ》・黒崎の唐人神《タウジンガミ》の鼻・勝本の長島・諸津・瀬戸・八幡の鼻・久喜の岸と、八个処に在る訣である。
此中神瀬のが一番大きく、久喜のは柱|本《モト》岩とも言ふ。唐人神の鼻のは、要塞地帯に包まれて了うたから、もう見に行くことも出来ない。其柱の折れた為、綱も断れて、島は少しづゝ、海の上を動いて、さら[#「さら」に傍点](漂)けて[#「けて」に傍点]居るのである。時々出る、年よりたちの悔み言には、一層の事、筑前の国に接《ツ》けといたら、よかつたらうに、と言ふ事である。折れ柱の名は、今も言ひながら、もう此伝へは、私に聞かした人以外、島の物識り・宿老も口を揃へて、そんな話は聞いたこともないと言うた。唯、神が島を生まれた時と言ひ、壱岐の島の神名「天一ッ柱」の名が、折れ柱に関係あり相なのが、後代の合理化を経て居るのではないか、と思はれる点である。
島の生きて動くこと、繋ぎ留めた柱の折れたこと、其が岩に化《ナ》つて残つたこと、此等は民譚としては、珍らしく神話の形を十分に残して居るものと言へる。童話にもならず、英雄の怪力譚には、ならねばならぬ導縁が備つてゐるにも拘らず、さうもならずに居たのは、不思議である。百合若大臣の玄海|島《ジマ》は、壱岐の国だと称して、英雄譚がゝつた物語は、皆、百合若に習合せられてゐる国である。
他の地方では、非常に断篇化してゐるあまのじやく[#「あまのじやく」に傍線]の童話が、壱岐ではまだ神話の俤を失はずにゐる。昔「此世一生、上月夜」で、暗夜といふものゝなかつた頃、五穀豊熟して、人は皆、米の飯に小菜(間引き菜)の汁を常食してゐた。米も麦も黍も粟も皆、沢山の枝がさして、枝毎に実が稔つた。田畑の畔に立つて「来い/\」と招くと、米でも、豆でも皆自ら寄つて来て、手を卸さずとも、とり入れが出来た、と言ふ、そんなよい世の中であつた時、あまんしやぐめ[#「あまんしやぐめ」に傍線]が其を嫉んで、一々枝をこき取つて、茎の頭にだけ残して置いた。豆をしごき忘れたので、此だけは枝が多く出る。さうして最後に、黍をこき上げた時、其葉で掌を切つた。其血が、黍の
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