たことについて、疑ひを起さぬ訣にはいかぬ。先年亡くなつた祖母も、百姓一まきの家としての、所謂はなや[#「はなや」に傍線]を知つてゐるばかりで、花を売つてゐたことは知らぬ、と言うてゐた。此屋号は、はなや[#「はなや」に傍線]といふ音の第一綴音に、音勢点があるので、今の大阪語の花屋は、其音勢が亡《ナ》くなつてゐる。今を標準とすれば、勿論、花屋ではない、と言ふことは出来る。
しかし、音勢点の時代的移動や、熟語を作る際の抑揚移転を、考へに入れてかゝらぬ様な語原解釈は、無意味である。今の、あくせんと[#「あくせんと」に傍線]を標準とした此はなや[#「はなや」に傍線]の説明は、唯説明が出来ると言ふだけで、さうに違ひない、と言ふ証拠には、ちつともなつてはくれぬ。併し何にしても、家の為には花屋でなく、鼻屋であつた方がよいか、と思ふ心が、かう書いてゐる間にも、強く動いてゐる。
折口の降り口であることだけは、根来落ちと関係を切り放しても、確かさうである。金田一京助先生は、あいぬ語の ru−essan が、折口に当つてゐる、とわたしの家の名義の話を聴いた末に、言はれたことがある。又、近頃発表せられたあいぬ[
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