、やはり、折口を名のつてゐた。此が、折口の本家である。家の親類ではあるが、血筋はすつかり、切れて了うてゐる。当主の清《セイ》吉といふ人は、小学では同級で、青涕《あをばな》を初中終啜つてゐた、おつとりした子であつたが、此家も、電車道に屋敷を奪はれて、折口の古屋敷は亡くなつた訣なのである。
子どもの頃、誰かゝらはなや[#「はなや」に傍線]は、鼻家《ハナヤ》・端屋の意で、崖の上にあつたので、扨こそ、根来落ちには道案内もした訣なのだ、と言ふ理のつんだ様な話を、聞かされたやうに思ふ。
併し、或はたばたの折口が、何時の頃にか衰へて、唯泉寺・願泉寺・田傍地蔵の花を売つた様な事が、あるのかも知れぬ。唯、花屋といふ商売を、賤業と見なしてゐる徳川頃に、如何におちぶれても、仏の花を商うてゐる家を、旧家七軒の中に数へなかつたであらう。なる程、人馬講の名の様な活動を、此村の草分けの人々がした頃には、或は此木津が、本願寺附属の、童子村・神人村風の処だつたかも知れぬが、所謂賤種階級を数へることの整うて後の江戸末期に、此村の古い家が、情ない商売をしようとも思はれぬ。弁解ではないが、本家とも言ふべき家が、妙な屋号を持つ
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