の中でも、粟島即、すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]説を離さぬ人がある。
処が古事記・日本紀などを覗いた方には、直ぐ判ることだが、すくなひこなの命[#「すくなひこなの命」に傍線]以外にちやん[#「ちやん」に傍点]と淡島神があつて、あの住吉明神の后同様に、海に流されてゐるのである。即、天照大神などを始め、とてつ[#「とてつ」に傍点]もない程沢山の神々の親神であるいざなぎのみこと[#「いざなぎのみこと」に傍線]・いざなみのみこと[#「いざなみのみこと」に傍線]の最初にお生みになつたのが、此淡島神で、次が有名な蛭子神であつた。
遠い/\記・紀の昔から、既に、近世の粟島伝説の芽が育まれてゐたことが訣る。一体、此すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]は、常世の国から、おほくにぬしの命[#「おほくにぬしの命」に傍線]の処へ渡つて来た神であり、而も、おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]と共に、医薬の神になつてゐるし、粟に引かれて来た粟といふ聯関もあり、かた/″\淡島神とごつちや[#「ごつちや」に傍点]にされる原因に乏しくないのである。でも、其は後世の合理的な見解に過ぎないので、もつと色々な方面から、お雛様の信仰と結び附いたのであつた。
此淡島様の祭日は三月三日であつて、淡島を祈れば、婦人病にかゝらず、丈夫な子を持つ、と信ぜられてゐたのである。此は、三日には女が海辺へ出かけて、病気払ひの祓除《ミソギハラヘ》をした遺風が底に流れてゐるらしい。一方、三月三日を祓除の日とする事は、日本ばかりではなく、支那にもあつた事で、寧、大部分支那から移された風と見ることが出来る。
唯、単に春やよひの季節のかはる頃、海に出て、穢れを洗ふといふのは、古くからあつたと見られる。支那では、古く三月の初の巳の日、即、上巳の日に、水辺に出て祓除をし、宴飲をした。其が形式化して曲水《ゴクスヰ》の宴ともなつたので、通常伝へる処では、魏《ギ》の後、上巳をやめて三日を用ゐる様になつたが、名前は依然、上巳で通つてゐるのだといふ。同じ例は端午の節供に見出される。始め、五月最初の午の日であつたものが、五日に決められても、やはり、端《ハジ》めの午なのである。
かうして支那の信仰が、日本在来の宗教上の儀礼と結合して、上巳の祓へといふものが盛大に行はれるに至つたのであつた。唯、必しも女ばかりが、此日に祓除した訣ではなか
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