の人の言ふ彼の評判へ向けて、私の感じはいつでも、いこぢな對立を守つて讓らなかつた。
「ヴィヨンの妻」や「人間失格」も、かう言ふ範疇に入れて、私は見てゐた。平氣になつて考へると、私の思ひの中の太宰は、とく[#「とく」に傍点]の昔に、ある部分は、變つて行つてゐたやうである。かう言ふ經歴からすれば、私の考へることなどは、あて[#「あて」に傍点]になつたものでない。
小説乃至戲曲などいふ文藝に、ずぶ[#「ずぶ」に傍点]の素人である我々からすれば、若い此人の作物は、隨分驚くに堪へた經歴が、織りこんである。われ/\が終生それから離れない世間の生活の上に、虚構の生活――といふと、ことば[#「ことば」に傍点]がわるいが――文學者の希求《ケグ》の生活と言つたものが出て來てゐる。誰から許されて、そんな生活をした訣でもないが、其を積んで行く自由を持つてるやうに、彼らはどん/″\別途の生活の方へ分岐して行く。以前は、こんな生活を、簡單に詩人的だと稱へたものだが、今では、もつと輪をかけた形に、ひろがつて來てゐる。太宰君の文學者としての生活を見ると、いつか作物の上の生活が、世間の生活から、ぐん[#「ぐん」に傍点]と岐れて行つてしまつてゐる。自分だけ守る生活といふものを、極度に信じた事から、たゞ一途に、自分の文學を追求して行つた。謂はゞ、筆は生活追求の爲に使はれてゐた。さうして段々、深みに這入りこんだ彼だつた。私などは、それに氣のつくことが遲かつた。斜陽の「新潮」にのりかけたのを見て、はじめて太宰君が何に苦しんでゐるか、といふことをおほよそ知つたくらゐのものである。現實の出發に先じて、虚構が出發してゐたのである。虚構といふと、とりわけ誤解がありさうな作物だから、文學が先に出てゐると言ひ替へてもよい。平易に、文學的作爲と言ふやうな語をつかつてもよい。斜陽の現實よりも、斜陽の虚構の方が先に發足してゐる。さうして展開する虚構の後を追つて、現實が裏打ちをして※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた。――私はかう言ふ風に後を追つて考へてゐる。――事實と全く關係のないことだが――あの小説の女主人公のやうなものを、幻像を持つた作者が、偶然少し誇張を加へれば、幻像にぴつたりするやうな女人を知ることになる。それが、文學志願を抱いた娘なんかであつて、自分の閲歴に近いことを小説體に書いた手記風の書き物を持つてゐた。――さう事實を設定して見れば、説明がし易い。其女性に相當知り合ひになつた彼が、手記を借りて讀む。小説の上の生活は、これから出發する。其と共に、虚構の生活は、先へ/\と蹈み出して行く。さうした生活を註釋するやうに、或は確實性を持たせる爲の樣に、小説の上の娘との交渉が進んで行く。謂はゞ、科學者の行ふ實驗のやうに、彼においては、生活の實驗が行はれて行くのである。
――私は斜陽の發表を、次々に見てゐる中に、ふつとそんな氣が起つた。小説の終末が作者の現實の中に留るか、更に虚構の世界にはみ出して行つてしまふか、この二つが頭に浮んで來た。だが、どちらも作者の考へとは喰ひ違つたことになる。これはどうしても、作者の肉體が限界になる。肉體の強靱がものを言つて[#「ものを言つて」に傍点]、虚構を征服してしまはねばならぬ。さうでなければあぶない事になる。こんな危殆《ヒアイ》な感じが心を掠めたものだつたが、何分實際に作者に行き逢つてゐない。知つてゐるのは、春部の話して聞す太宰君だけである。友人を清く見せることが、自分の生活のよさを示すことだと思ふ癖が、一群の青年にあるのだから、春部も、さういふ風の太宰君だけを語つて、私の太宰觀を清くすることに努めてゐた。だから、勘のわるい私には、太宰君の運命をつきとめて考へることが出來なかつた。又、出來たところで、どうなるものでもなかつたが……。その間に太宰君は小説を超えて、――或はまだ著手しない小説の爲に、中年と若年の間に彷徨してゐる男と、若い女との戀愛を實驗しはじめてゐたのであつた。此未著手の小説は、作者の體力の爲か、現實としても未完成に終つたが、あの境をのり超えてくれゝば、其は其で又、さうした男女關係に一つの解決が與へられたのであらうのに――。
太宰君は勉強家で小説の源頭の枯涸することを虞れて、いろんな古典を讀んだ。さうして其效果は、いろんな形で、その作物の上に現れてゐる。この書物の上に彼の積んだ經驗は、我々安んじて眺めることが出來る。だが、世上人としての經驗は、學生と文學者以外になかつた君である。言はゞ懷子《フトコロゴ》のやうな一生だつた。もつと經歴を積んでくれねばならなかつたのだ。ところが流行作者としての生活が、彼を、家と爲事場《シゴトバ》と、其から心を養ふ爲の呑み屋とから、遠く離れて遊ぶことを許さなかつた。唯彼は勉強した。からだ[#「からだ」
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